第12話篠塚さん、私が帰りたくないって言ったらどうしますか?
数日後の金曜日、その日は夏祭りの打ち上げということで久しぶりに職員同士の飲み会が開催された。篠塚はたいていこういう場でアルコールを口にしない。表向きの理由は酔いつぶれた職員を送るのも管理者の務めということで自家用車で来ているというものだが、実際のところそこまで気を許していない人間とは酒を飲めない質であった。
会が始まって二時間もすると皆いい加減に酔いも回ってきて、愚痴っぽくなる者もいれば、陽気に笑い出す者、ひたすらに飲み続ける者と千差万別である。幹事の挨拶が終わり辺りを見回すと新入社員の二人が机に突っ伏している。
「やだ、新人が潰れてる」
と皆がけらけら笑って
「誰か送ってあげなさいよ」
「誰か飲んでない人います?」
と騒いでいる。
篠塚はこうなることは予想していたがまさか二人ともが潰れてしまうとは考えていなかったのでこめかみを掻いた。宇野職員は若い女性であり出来れば二人きりで送ることは差し控えたかった。同じ新入社員の男性職員に介抱させようと思っていたのにまさか当の本人が酔いつぶれてしまうなどとは思わなかったのである。その上
「だいじょうぶです。ぼくは兄がむかえにきてくれますから」
と覚束ない喋りで自分の迎えのアピールまでしている。飲んでいない職員も子どもが待っているからとそそくさと席を後にしてしまい、どうにも自分しか送る人間がいないことは明白であった。
仕方なく
「歩ける?」
と聞くと相手はふらつきながら立ち上がり篠塚に捕まった。踵の高い靴を履いてきているためかまともに歩けない。篠塚は口端を噛んでから、相手の肩を支えて近くの公園まで歩き出した。これではまともに道案内もできないだろう。家の前まで送ることができたとしてもそれから家の中まで介抱して上がるのはさすがに抵抗があった。
宇野をベンチで休ませてから、冷たいコーヒーを買ってくると相手は先ほどまで横になっていた上体を起こして遠くを見つめていた。
「大丈夫?」
「すみません。何だか篠塚さんにご迷惑おかけして」
(本当だよ)
と心の中だけで呟いて建前上
「いや僕はいいけど」
軽く嘘をついた。
「人前で飲むときの飲み方は少し勉強しないといけないな」
「すみません」
口で言うほど反省している様子もなく宇野は何がおかしいのか笑みを浮かべている。篠塚は胸元から煙草を取り出して一本銜えた。
「篠塚さんって煙草吸うんですね」
「凄く疲れたときだけね」
「私の介抱そんなに疲れました」
「うん、凄く疲れた」
思い切り煙を吸い込んでから笑った。
「篠塚さん意地悪なこと言うんですね」
「そう?」
「はい」
それから煙草を一本吸い終わるまで二人は黙ったままだった。吸殻をしまってから
「それじゃあ酔いも覚めてきたみたいだし送るよ」
立ち上がる。
ふいに体の左側に重みを感じて振り返ると宇野が上着の服を掴んで引っ張っているところだった。
「篠塚さん、私が帰りたくないって言ったらどうしますか」
思いも寄らぬ台詞に篠塚はたじろいだ。こんな若い女性が自分に言い寄ってくるなど想像だにしていなかった。
「冗談言っちゃいけない。まだ酔っているのか」
ようやくのことでこれだけ言った。しかし相手は食い下がる。
「私冗談なんかじゃありません!」
あまりに真剣な眼差しを向けられて篠塚は職場でするのと同様相手の話を聞くスタンスで椅子に再び掛けてしまった。瞬時になぜ無理やり立たせて帰らなかったのだろうかと後悔しつつ、無意識に再度煙草を取り出した。
火を付けて一度だけ深く吸い込んでから頭の中に考えを巡らす。こういう場合どう返せば相手を最も傷つけずにこの場を収めることができるだろうか。そうして考えあぐねた挙句に
「そういう台詞はあまり不用意に言わないほうがいいな。僕の前では別だけど」
と言った。「僕の前」というところに殊更にアクセントをつけて発した。案にその発言は自分には響かない、君は僕のタイプではないと言ったつもりだった。だが相手はそうは解してくれなかった。
「他の人になんか言いません。篠塚さんだから言うんです」
「僕の前だけで言ってほしいと言っているわけじゃないんだ。そうじゃなくて、君にはもっと相応しい人がいるよ」
「自分に相応しい人は自分で決めます」
あまりにも直球で気持ちをぶつけられ過ぎて篠塚はいささかこの男らしからぬガードの甘さを露呈することになる。そしてこれが彼をその後暫くの間苦しめる結果となる。
彼はそのまま立ち上がって彼女を当初の目的通り送るべきであった。にも拘わらずこういったのである。
「僕だって男だ。これ以上一緒にいたら君が泣いて嫌がっても帰してあげられないかもしれない」
「泣いて嫌がるくらい意地悪なことするんですか」
宇野は悪戯っ子のような笑みを浮かべて応じた。
篠塚は煙草の煙をゆっくりと吐き出してから
「意地悪されたいの?」
その刹那だった。宇野が悩殺されたような甘美な表情を浮かべたのである。一瞬のことだった。篠塚は急に目の前の女性を手に入れたい衝動に駆られた。自分がひた隠しに隠し忘れていた本能の部分で、目の前の女性の唇を噛みつくように奪いたい感情に襲われた。
煙草を掻き消して彼女の頭を掴むとその口元に自分の唇を寄せる。と、ふいに若い男女の話し声が聞こえてきて、口づけをする直前篠塚は我に返る。慌てて宇野から体を引き剥がすと椅子から立ち上がり
「送る」
とだけ告げて先に立って歩き出した。
篠塚は自分の中にまだこのような感情が存在することに驚きを禁じえなかった。異性に対して全く心が動かないわけではないが、渇望するほどに我が物にしてしまいたい感情とは最近とんと無縁であった。
きっと自分は思慮分別もつかなくなるほどに疲れているのだ、そう言い聞かせて、冴え渡る頭を誤魔化しながら必死に眠りについた。
そして翌日篠塚はさらに自身の存在を脅かす出来事に遭遇するのである。
管理者室で二人きりになった幹部候補生より
「篠塚さんさすがですね」
声を掛けられて、篠塚は一瞬相手が何を言っているのか分からず右目を細めた。相手はこう続けたのである。
「宇野さんからの誘いをきっぱり断ったそうじゃないですか」
よく表情を変えなかったものだと思う。いやもしかしたら多少は動揺の色が出ていたかもしれない。相手は篠塚の心の乱れに関係なく言葉を繋げた。
「さすがの篠塚さんも年下の女性から迫られたららしくない行動とるんじゃないかと思ってたんですけどね。賭けは俺の敗けです」
(賭け?何を言っているんだこいつは)
「俺たち賭けてたんです。篠塚さんが宇野さんをお持ち帰りするかどうか。彼女から聞きましたよ。篠塚さんキスさえ応じなかったそうじゃないですか」
言い終わるか言い終わらないかのうちに篠塚は立ち上がると、隣に腰掛けている相手の胸ぐらを掴んで立ち上がらせた。ここにタイミング良く他の職員がやってこなければ篠塚はおそらく男の顔面を殴り付けていただろう。
「篠塚さん!」
室内に入ってきた錦織が慌てたように声を掛けてきたので、篠塚はそのまま相手の胸ぐらを押し返すように椅子に投げつけた。男は相当驚いただろうが、篠塚にその顔を見やる余裕はなかった。
普段の篠塚ならば対して意に介さなかったことだろう。正確に言うならば、相手の放った言葉の通りであれば、それほど気に留めることもなかった。しかし事実は違っていた。
篠塚はまんまと彼らの術中に嵌まっていたのである。おそらくタイミングがずれていれば、男の予期していた通りの行動をとっていたはずだ。いや、これも正確ではないかもしれない。若い職員の話題作りのネタにされたとしても、いつもの彼ならば、そんな賭け事の何が面白いのか、と一笑にふしていたはずだ。そう、いつもの篠塚であれば。
それは言うなれば精神的な凌辱であった。一人の女性から自分への恋情を打ち明けられ、それが自分を落とし穴へ落とすための策略であったこともそうだが、それに釣られて口付けを落とそうとしたことを女が気付いていないわけはなかった。それにも関わらず、女がその事実だけを隠して、賭けに勝利したと吹聴したことが解せなかった。自分のあのときの感情は女によって弄ばれたのだ。自身でさえ知らなかった己をこのようなかたちで引き出されたことは彼にとって許しがたいことであった。
篠塚はその日全くもって精細さを欠いた。電話番号を掛け間違えたり、資料の記載を違えたりと、初歩的なミスを繰り返し、集中しようとすればするほど、意識は今朝の管理者室の出来事ではなく、昨夜の公園へと引き戻された。何とかぎりぎりのところで身を持たせて珍しく定時で上がろうとしたとき、一番見たくない後ろ姿がそこにあった。女は全くいつもと変わらぬ態度で快活な笑顔を見せると
「お疲れさまでした」
とこれも普段通りの挨拶をしてくる。
篠塚はそれには答えず相手が下足を履き終わるのを確認して自身も玄関から出ると追い越しざまに
「ふざけるな」
隣にいる人間にしか聞こえない声量で告げた。怒りを通り越して、ほぼ無感動に近い乾いた声は女の耳にどのように届いたのであろうか。篠塚が女を振り返ることはなかった。
帰宅してからも何も考えられないままに篠塚はウイスキーをロックで煽った。いつもは対して酔いもしない酒は、この日だけどうしようもなく体にこたえた。昨日の寝不足もあり、彼は落ちるように眠りの世界へ引きづりこまれた。
翌日から宇野介護士は職場に来なくなった。
そしてそれとほぼ時期を同じくして、榊原順一郎氏が急変により救急搬送された知らせと、彼と仲の良かった樋口さんの訃報が入った。こもれびは大事な利用者を二人も失うこととなった。
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