第10話篠塚さん、申し訳ありませんでした!
会社に戻ると長時間の不在を心配してか、新人職員の宇野介護士が駆け寄ってきた。
「篠塚さん申し訳ありませんでした」
突然すごい勢いで頭を下げられて篠塚は言葉を失う。訳も分からず相手を見つめると
「私のせいなんです」
宇野介護士は両手でジャージを握り締めて微かに震えている。
「私、榊原さんの初日の日に迎えに行ったことを猿谷さんにお話ししたんです。それでその日は榊原さんがたまたま一階の食堂にいらっしゃったって言ったから。だから猿谷さん勘違いしちゃったと思うんです。榊原さんが基本一階で待っているって。私こんな大事になるなんて思ってなくて。篠塚さんが『陽だまり』に謝罪に行かれたって聞いて申し訳なくて」
篠塚は思わず吹き出した。目の前のいざこざに振り回されて取り乱している中堅職員と真面目過ぎる新入社員の取り合わせがちぐはぐ過ぎて余りにも滑稽に思えてならなかった。
「あ、ごめん。君があんまり真面目だから、つい。今日のことは君のせいじゃない」
「でも」
「問題があるのは猿谷さんというより、彼に対して明確な方向性を見出せない上の側だよ。君は事実を述べたに過ぎない。一階に迎えに行けば良いと言ったわけではないんだろう」
宇野介護士はゆっくりと顔を縦に振った。
「君にはこの間も助けてもらった。注意すべきことは何もない」
それだけ言って相手の肩を叩く。
猿谷と話しをしなければならない、篠塚はそう思った。
当の猿谷は見るからに落ち込んだ様子で管理者室へやってきた。自分のやったことが思っていた以上に大きく取り上げられてしまったことに内心穏やかではないようだ。
「猿谷さんなぜ呼ばれたのかは理解されていますね」
「はい」
「『陽だまり』は部屋へのお迎えです」
「はい」
篠塚はあえてどうしてこのような取り違えをしたのかは聞かなかった。おそらく宇野職員の想像する通り、猿谷が文脈を取り替えたのだろうが、わざわざ新人職員の言ったことのせいだと発言させる気はなかった。
「一度確認しておきたいのですが」
「はい」
「犬飼主任をどう思っていますか」
猿谷は一瞬驚いたような表情を見せ、視線を色んな方向に彷徨わせてから
「とても優秀な人だと思います」
答えた。
「とても一生懸命ですし。ただ」
「ただ?」
「あの人の話すことは、何というか、とても複雑で分からないことがあって、私は時々混乱します」
「犬飼さんに対してわざとミスをして困らせようという気持ちがありますか」
猿谷は慌てた様子で頭を振った。
「そんなこと考えていません」
「信じてもよいですか」
「もちろんです」
ここまで踏み込んで聞いたのは初めてだった。相手の言葉を信じるならば対応すべきは指示の仕方、あるいは猿谷に適した業務の采配である。
犬飼がやってきた当初の敵意剥き出しだった猿谷を考えると、全てがすべて本当のことを言っているわけではないだろうが、今の状況では意図してやっているわけではない、ということだろう。
「猿谷さん、僕はあなたを買っているんです」
猿谷は俯きがちだった顔をゆっくりと持ち上げた。
「デイの利用を望む家族と頑なにそれを拒む利用者。あなたは介護で気持ちが折れそうな家族を救える人だ。僕はそう信じています。この会社にはあなたが必要だ」
篠塚はここまで言ってから、長文の説明が苦手な男にどこまで通じただろうか、と僅かに不安を感じた。相手が感激したような羨望の眼差しを向けているのを見て、理解してくれていると安心してから続ける。
「分かりますね?これ以上のミスは許されない」
「はい」
「犬飼さんにも相談して、指示の仕方を変えてもらいます。あなたも分からないときは理解できるまで聞くこと」
「はい」
「話しはそれだけです。お疲れさまでした」
「失礼します」
猿谷は入ってきた時とは打って変わって活き活きとした足取りで退室する。部屋を出る前にやはり羨望の眼差しを篠塚に向けた。篠塚は軽く頭を下げてそれに応じると椅子に深く沈み込んで大きく息を吐き出した。
篠塚は同性からもよくこの眼差しを浴びることがあった。なぜか自分が激励の言葉を掛けると相手は自分の予期した以上に感情を高ぶらせて自らを鼓舞するらしかった。この眼差しに出会う度、篠塚はまるで自分を戦国武将か何かのように思うことがあった。でもその目の前には有力な武将たちが数多くいて、自分はその顔色を見ながら生き延びているに過ぎない、そう思う。
生き延びた末に飲み干すコーヒーはいつも味気ない味がするのだ。
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