第9話篠塚さん、クレームがきています!

斯くして篠塚はサービス向け高齢者住宅陽だまりハウスへとやってきている。

事務員の話だと本日利用の榊原のお迎えにやってきたデイ職員が、本来利用者を部屋まで迎えに行かなければならないにもかかわらず、玄関先に出てきていないこと、その対応を陽だまりの職員がやっていないと文句を言い出し、最終的に陽だまりの職員と言い争いになったとのことで、陽だまりの施設長から苦情が来ているとのことだった。そしてこの問題の当事業所の職員というのが、言わずもがなの猿谷である。元々他の職員が対応するはずだった送迎を勤務の交代で、あろうことか猿谷に変更したというのである。幸か不幸か、その日は犬飼の公休日であった。

篠塚は自動扉の少し前でネクタイを締め直してから意を決して建物へと歩みを進める。

受付で検温を終わらせてから、

「施設長にお会いしたいのですが」

と面会を求めた。しかし返ってきたのは

「施設長はただいま外部に出ておりまして。どのようにさせていただきましょうか」

「そうですか。…実は本日うちの職員がそちらの職員さんに大変失礼な発言をしたようでして、どうしても直接お会いして謝罪させていただきたかったのですが」

と、そこへ

「篠塚さん」

朗らかな声がして振り替えるとサービス担当責任者の高遠であった。

「高遠さん」

見知った顔を見つけて篠塚は心の中で安堵の溜め息をついた。

「この度はうちの職員が大変失礼な発言をしたようで」

「そのためにわざわざ来てくれたの」

「本当は施設長に直接謝罪をしたかったのですが。本当に申し訳ありませんでした」

「篠塚さん!頭を上げて。そんな謝ってもらうようなことじゃないんだよ」

顔を上げると高遠の慌てたような顔があった。

「しかしそういうわけには。うちの職員の発言で不快な思いをされた職員さんがいらっしゃったとのことですが、できればその方にも直接謝りたいのですが」

「わざわざ来てもらってるから案内してもいいけど、本当にそんな謝ってもらうことじゃないんだけどなあ」

高遠はしぶしぶといった感じで頭を掻きながら介護士の詰め所へと案内してくれる。目的の職員は詰め所で日誌の記入を行っていた。まるでドラマの中から出てきた主人公のような目鼻立ちの整った女性である。とても言い争いをしそうなタイプには見えなかったが、相手が高遠の言葉に応じて立ち上がりこちらに対峙したところで、篠塚は納得した。芯の強そうな眼差しは挑発的な光を宿している。

篠塚は高遠にした謝罪の言葉を繰り返した。相手は、この男なかなか分かっているじゃないの、とでも言いたげな顔つきで応じた。

「こちらも少し言いすぎました。ただデイのお迎えはお部屋まで行っていただくというのが、こちらでのルールでして、そのあたりをそちらの事業所の職員さんでも共通認識にしていただけると助かります」

「はい、職員にも再度徹底いたしますので申し訳ありませんでした」

ひとしきり話が終わりその場を後にしようとすると、急に高遠が

「篠塚さん、まあ一杯お茶でも飲んでいってよ」

と面会室を指差した。

「謝罪にきて手厚いもてなしを受けていては怒られます」

「でももうその仕事は終わったんだし、これからは管理者同士の情報共有のための会議ってことで」

そう言うなり受付の女性に声を掛けて来客用の部屋へと歩いていってしまう。有無を言わせぬという感じではないが、相手に気を遣わせずそれでいてさりげなく労う、見事な妙手であった。

高遠は入り口とは反対の席に篠塚を座らせてから、自分も目の前の椅子に腰掛けた。

「しかし篠塚さんもまめだね。僕だったら電話の一本で済ませちゃうよ」

豪快に笑ってから

「それにさっきから何回も言ってるけど、別に施設長もこういうつもりで電話を入れたんじゃないと思うんだけど。何せうちの施設長は篠塚さんに対して絶大なる信頼を置いているからね」

篠塚はこれを頭を振るというかたちで応じた。

「電話の口調もごくごく穏やかだったし、どうして苦情を入れたような話になっちゃったんだろう」

もしそれが事実であるとすれば思い当たることは我が社の犬猿事件に他ならない。

「身内の恥を晒すようでお恥ずかしい話なのですが、うちの社でも職員同士のトラブルがありましてその当事者の一人が今日の職員なんです。社内でこういうことが度々あるので、おそらく電話を取った者が早合点してしまったんでしょう」

「大変だねえ」

高遠は頭を掻いて応じる。

「今日の職員は僕としては有益な人物として捉えているんです。デイの利用を頑なに拒んでいた利用者さんも彼がいるとその後快く来訪するようになったり」

「それは貴重な存在だねえ」

「ですよね。一方の中間管理職はこちらもとても有能な人間でして、うちとしても決して他の会社に取られたくない」

「となると普通は中間管理職のほうを取るよねえ」

「まあ、そうなんでしょうが」

「それでどちらを取るかで悩んでいるの?」

「まさか。僕には人事権はありません。うまくやってくれたらいい、そう思っているだけですよ」

「なるほど」

高遠は「大変だねえ」を繰り返して顎に貯まった汗をハンカチで拭った。

「しかしうまくやってもらうには当面そのミスをどうにかしてもらわないといけないわけだけど、何か手立てはあるの?」

「それが…。ただ最近考えていたことなのですが、彼はどうも指示内容が長いと言葉を取り違えるような気がしています。指示をごく短文にすれば通るのではないかと。前任の中間はそれこそ部下に対しては横柄なところがあり、おそらく細かい説明は抜きに、単純な指示しか与えていなかったのではないかと」

「うーん、それとも指示をほぼ与えなくても済むような業務しか与えていなかったとかね」

「指示を与えなくても良い業務?」

篠塚は相手の発した言葉を繰り返しながら記憶を呼び起こす。言われてみれば猿谷はいつも庭木の手入れをしていたように思われた。この間褒められた季節の花壇を立派に拵えたのも彼であった気がする。

「もしかすると君のところの中間管理職は、前任よりも彼のことを高く評価しているのかもしれないな」

「高く評価ですか?」

「うん。そんなに嫌だったらわざわざミスを繰り返す業務には回さないだろうし、やらせない。自分の仕事が増えるからね。わざとミスを連発させて辞めさせようとしているならともかく、それまでにこちらの身が持たないよ。第一仕事を振る側の責任も問われる」

「なるほど」

「そこまでして、彼に業務の一部を任せよう、育てようとしているってことじゃないかな」

そんな発想は篠塚の中に未だかつて微塵も湧いてこなかった。目の前のいざこざにただ振り回され、その奥まで見ようとはしていなかった。高遠の言うとおりであるならば、犬飼の怒りは猿谷へというよりも、彼を伸ばすことのできない自身への怒りであるはずだ。

「高遠さんと話していると何だか目から鱗が落ちる気がします」

高遠は大きな笑い声を立てると、

「言っても僕は当事者じゃないからね。的外れなことを言っているかもしれない。それに側で見ている人間は大変だよ」

先ほどまでの「大変」とは違って重みのある言葉だった。

「一つ僕の中に案があるにはあるんだけど。たとえば指示内容を言葉ではなく、文字に書き起こして渡す、あるいはメモをとらせるっていうのはどうだろう。人によっては音声で聞き取るより、文字から視覚に入るほうが理解しやすい場合もある。あるいは絵や図に記すとか。どれも手がかかるけどね。それでも駄目な場合はお互いのために、元通りごく簡単なルーティンワークをこなしてもらうよりほかないな。仕事の幅を広げることが全ての人間にとっての幸せとは限らない。共存するための住み分けも時には必要だよ」

「共存するための住み分けですか」

ここで部屋の扉がノックされ、

「失礼します」

若い女性職員が入ってきた。手には湯飲みの載ったお盆。

「あれ、一ノ瀬さん。霧島さんは?」

一ノ瀬と呼ばれた職員は、歳の頃合いは、宇野介護士と同じくらいであろうか。ポニーテールの髪を揺らして応じる。

「霧島さんは今家族様対応です」

どうやら受付事務員の業務が立て込んでいるため、代わりにお茶を入れてくれたらしい。

「そっかあ。いやあ残念。霧島さんの緑茶は格別なんだけどなあ」

篠塚は慌てて高遠に顔を向けた。自分の会社でこんなことを言おうものなら大事件に発展しかねない。案の定一ノ瀬職員は

「霧島さんのお茶じゃなくて悪かったですね」

と気分を害したようである。高遠はさして気にした様子もなく

「いや、これもなかなか美味しいよ。一ノ瀬さんって味がする」

 などと言って豪快に笑った。

「優しい味だね」

「もうそんなこと言っても胡麻化せませんよ」

 一ノ瀬介護士は舌を出して高遠に応じているが、存外悪い気はしていないようで言いながらくすくすと笑っている。この男に掛かるとハラスメントなどという言葉自体が意味をなさなくなってしまう。高遠であれば自分の会社の揉め事もすでに丸く収まっているのかもしれない。そう思うと篠塚は言い知れない嫉妬心を目の前の男に抱かざるを得なかった。

「私ったらお客様の前で失礼しました」

 篠塚の心の内など分かるはずもない一ノ瀬職員は、普段通りの砕けた態度を取ってしまったことに慌てて室内を後にした。篠塚はその後ろ姿を見送ってから

「高遠さんが所長クラスにならないことが不思議です」

 言った。

「高遠さんほどの実力があればもっと上に声が掛かってもおかしくないでしょう。もちろんサ責は重要な仕事であることは承知していますが、あなたにはもっと別の役が向いている気がして仕方ないのですが」

「買いかぶりすぎだよ」

高遠は笑いながら頭にハンカチを当てる。それからふと真顔になって

「まあ話がないわけではないんだけど」

「そうなんですか」

「でも実のところサ責のなり手がいなくてね」

「なるほど」

 サービス担当責任者は事業所の訪問計画から他事業所との連絡調整、利用者一人一人の訪問計画からその評価まで仕事内容が多岐にわたる上に忙しい。挙ってなりたがる人間は確かにいないだろう。

「でも僕は一人これはっていう人物を見つけてはいるんだけど」

「サ責の後任ですか」

「うん。しかし彼もちょっとしたトラブルメーカーでね」

「トラブルメーカーの後任ですか」

「トラブルメーカーと仕事のできる人間は紙一重だからね」

 そんなことはないと思うが高遠がそういうのだから余程仕事のできる人間なのだろう。

「関西訛りの切れ者だよ」

「関西弁のトラブルメーカーですか。もはや危険な香りしかしませんが」

「うん。協調性をもう少しだけつけると申し分ないんだけどね。それを待っているところだよ」

「待って付くものですかね、協調性は」

 高遠は楽しげに湯呑のお茶を啜っている。

 話しも終わり玄関先で別れの挨拶を交わしていると向こうから先ほどの一ノ瀬介護士がやって来るところだった。

「先ほどは美味しいお茶をありがとうございました」

「いえ、こちらこそ、そんな風に言っていただきありがとうございます」

 にっこりと微笑む一ノ瀬介護士に篠塚は目を奪われた。相手は気に留めた様子もなく事務所の奥へと歩いていってしまう。

「ね、彼女いい笑顔をするでしょう」

 高遠の声で我に返った。

「本当ありきたりな言い回しだけどお日様みたいな。あの笑顔を見てるとこっちまで元気をもらえるから不思議だよ」

「……向日葵」

「え?」

「あ、いや、何でもありません」

 初めて榊原がやって来た日の会話。緋色さんの奥さんが向日葵を好きであったという話を彼は頭の中で繰り返していた。

 再度お礼を言ってから篠塚は建物を後にした。

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