第5話「5分前ルールなんて誰も決めていない」

 九月六日、午後八時。

 赤坂インターナショナルビル十階。


 ほとんどの社員が勤務を終え、明かりは人がいるエリアのみ照らしていた。照らされる人々は、まるでサーチライトに集まる魚のようだった。


 円卓決議前夜。


 友菜は明日に向けて資料の作成を行なっていた。


「ユナっち。これ……」


 茉莉乃が机に紙束を置く。


「労働関係の法律とか判例とか、みんなで集めたから、よかったら使って」


 茉莉乃の後ろには同期や若手の先輩が十人ほど立っていた。


「茉莉乃、みんな、ありがとう」

「ごめんね。私のせいで危険な目にあわせて」


「ううん。あたしはあたしのしたいことをしただけ。友達を見捨てるような大人になりたくないから」

「ユナっち、ありがとう!」


 茉莉乃は目に涙を浮かべた。

 彼女の奥にいる同期の一人が言った。


「羽坂さん、俺たちも手伝っていいかな」

「昨日の取締役の言動、正直カチンときていたんだよ」

「僕らのことを部品とか呼びやがって」

「若手の恐ろしさ、見せつけてやろう」


 彼らはそれぞれ一流大学を卒業した、いわゆるエリートだ。友菜には彼らがとても頼もしく見えた。


「ありがとうございます。では、ここなんですけど……」


 資料作りは順調に進んだ。鷲山の解雇通知は明らかに労働法に違反している。その正当性を主張すれば勝利は間違いない。

 判例を精査し、資料の完成が近づくにつれて空気は明るくなり、笑顔も増えた。




 午後十一時。


 資料が完成し、練習も問題なく終わったところでみんな帰り支度を始めた。

 身支度を終えた茉莉乃は一緒に帰ろうと友菜のことを見た。

 友菜は顎に手を置き、一心にパソコンの画面を見ている。映っているのは、明日の発表で使うプレゼン資料だ。


(もう不備はないはずだけど)


 しかし友菜の顔を見て、心がすくむ。



 彼女はまるで背後からナイフを突き付けられているかのような表情をしていた。



 茉莉乃は友菜と入社以来ほぼ毎日顔を合わせているが、これほど険しい表情を見たことがない。


「ユナっち、私はそろそろ帰るけど……」


 顔を上げた友菜は茉莉乃に向かって笑みを浮かべた。いつもの友菜の表情だ。


「あたしはもう少し練習してから帰ろうかな」

「……分かった。じゃあね」

「うん、また明日」


 プレゼン資料は完璧だ。関連法案の条文や判例を踏まえた資料は、自分たちの正当性をきちんと証明してくれている。


 なのに……。


 帰り際に見た友菜の表情がどうしても気になった。



   ***



 九月七日。午前八時五十五分。

 赤坂インターナショナルビル十二階、第三円卓決議室。


 羽坂友菜の姿はなかった。


 開始五分前となり、会場の喧騒はより一層増した。


「大丈夫かな、羽坂さん」

「取締役の威光に怯えたか」

「誰か、電話して」


 様々なヤジが飛ぶ中、午前八時五十九分。

 羽坂友菜、入場。


「ずいぶんギリギリの到着だな。社会人は五分前行動。そう習わなかったか?」


 鷲山は腕を組み、見下ろすように友菜を見た。


「申し訳ございません。調整に時間がかかりまして。ただ、開始時間には間に合いました。ルールとしては問題ありませんよね」


 挑戦的な視線に鷲山は目を細める。

 司会がマイクを握った。


「時間となりましたので、ただいまよりキャメロン・ウォーリスと羽坂友菜による円卓決議を始めます。審査員はヨータ工業取締役、松本健太郎氏にお願いいたします」


 円卓決議室は大きく円を描くようにテーブルが設置され、中央のスペースには友菜とウォーリスが向かい合って座り、そして両者の間に審査員である松本健太郎が座っていた。白髪混じりのオールバックの中年男性は紹介されると、軽く一礼した。


 審査員は当日まで通知されることはなく、事務局が最も中立にある人物を選定する。この松本という男は友菜はもちろん、ウォーリスも初めて対面する人物であった。


 審査員の紹介が終わると、早速、プレゼンテーションに入った。


 先攻はウォーリス。


 彼が映し出したスライドを見て、茉莉乃ふくむ同期や先輩たちは息を飲んだ。



   渡邉茉莉乃さんの新たな可能性



「Ladies and Gentleman。私は渡邉さんのを提案いたします」


 茉莉乃の額に汗が流れた。

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