第5話

 僕の妻は死んだ。死因は出血多量。そのときの光景は脳裏に焼きついていて、未だ離れることはない。きっと、一生忘れられないだろう。それが忘れられないのは、衝撃的だったからではない。綺麗だったからだ。生きている人間に対して綺麗だと感じることは少なくても、死んでいる人間に対して綺麗だと感じられることは間違いない。これは僕の美学だ。だから、彼女が死んだ姿も綺麗だと感じた。生きているときよりも綺麗だった。


 彼女は、自殺した。


 カッターナイフで首を切った。


 あまりにも典型的な損傷。


 もしかすると、冗談のつもりだったのかもしれない。


 彼女はソファに横たわっていた。その隣にルーズリーフが一枚落ちていて、紙面に次のように書かれていた。



「もう、意味を考えるのはやめましょう。意味がない」



 僕は言語学を専攻している研究者で、そのときある一つのプロジェクトに関わっていた。そして、そのプロジェクトのために、彼女の遺体が使われることになった。もともと誰かの遺体を必要としていたのだ。タイミングが良かったと評価できる。その彼女の遺体が、あのカプセルの中に入っている。中身が見えないようになっているのはそのためだ。多くの人間は、人の遺体を見たくないそうだ。だからシェードによって覆われ、あたかも存在しないかのように扱われている。


 僕たちのプロジェクトが目的としていることは、ただ一つ。


 それは、人間の存在意義を見出すこと。


 抽象的な説明だが、抽象的であることが効いている。そして、これだけ言えば大抵の者には理解できるに違いない。きっと、誰もがそのトピックについて考えたことがあるからだ。もちろん、僕も例外ではない。


 プロジェクトには様々な分野の専門家たちが関わっているが、僕は言語学が専門だから、当然、言語に関する分析を行う。具体的には、人間を人間と成す言語がどのような構造をしているのかを明らかにすることが、僕に与えられた任務だった。そのために、自分の妻の遺体を使うのだ。


 彼女の肉体は半分以上死んでいるが、脳はまだ活動している。死亡してすぐに保存する処置が施されたからだ。その脳にアプローチすることで、人間を人間と成す言語の様相が分かると考えられた。つまり、頭が身体を支配しているのであり、頭が人間を形作る根本と考えられた結果だった。


 今、彼女は僕の目の前にいる。


 カプセルの中は見えないが、横になる姿がありありと想像できる。


 彼女は本を読むのが好きだった。特に、何も文字の書かれていない、絵や図や写真が載っている本をずっと眺めていた。


 手もとにある基板を操作して、彼女の生体反応を確認する。特に異常はない。それから脳へとアクセスし、こちらとあちらを繋ぐリンクを形成する。リンクが形成されると、基板に付随したディスプレイに文字列が表示される。これは、彼女を形成する独自の言語が日本語に置き換えられたものだ。こちらが質問した内容に相手が答えることで、彼女を形成する言語を読み解こうとする。


 彼女を形成する言語は、彼女だけのものだから、そこから得られた結果が人間全体に適用できるとは限らない。ただし、彼女も人間には違いないから、それで何らかの手がかりが得られると考えられている。つまり、彼女という一人の人間を分析することが、人間を分析するという偉大なる研究の一歩として位置づけられているということだ。


 キーボードを使って、僕は彼女に質問する。



  Q:今日の気分は?



 すると、僕の質問に答える形で、ディスプレイに文字列が表示される。



  A:ずいずいずっころばし かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつ


    艇体の堤体の停滞の梯隊は 懐胎の改代の解体の拐帯に沈み


    路地を曲がった先に浮かぶ社は 霧に覆われ泥土と化して消える


    光、水、砂、枝、


    深紅に燻る水浅黄


    心ころころ ころころ心 薯蕷とろとろ とろとろ薯蕷


    染まれば地の燃えるがごとく 散れば空の凍るがごとし



 僕は並んだ文字列をじっと見つめる。ここから、彼女が何を言いたいのかを推測しなくてはならない。


「相変わらず、お前の問いには答えてくれるようだな」


 頭上から声がして、僕はそちらを見る。コーヒーカップを片手に持って、ドォルがディスプレイを覗き込んでいた。


「ええ、プロですから」僕は答える。


「しかし、今のところ、何の成果も上げられていない」


「じきに上がりますよ。長い目で見なければ、何事も上手くいきません」


「彼女が亡くなって、何年になる?」


 僕は計算する。


「およそ、四年と三ヶ月といったところでしょうか」


「彼女はどこにいるのだろうな」


「どこに?」僕はドォルを振り返る。「どういう意味ですか?」


「そのままの意味だよ」彼は言った。「彼女はどこにいて、そして、どのようにお前の問いに答えているのか、ということだ」


 僕は黙る。


 ドォルは、この組織の中でも珍しく、魂の存在を信じている一人だった。

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