第3話
ニルは十数分ほど眠りてゐたるが、すぐに目を覚ましたり。聞くところによると、先ほど昼食をとりたるばかりらし。昼食をとると必ず眠くなるさうであり。それも、意識を失ふほど眠くなるらし。その感覚は僕には分からざりたるが、定期的に意識を失えるは羨ましと思ひたり。それができるは、彼女がイミにかかりてゐぬからであらむ。やはり、僕はイミにかかりかけてゐるかもしらず。
「貴方も、ここで過ごしていれば、すぐに治るよ」ニルが言ひたり。「そうだ。本を読もうよ。案内するからさ」
ニルに促されて、僕と彼女は立ち上がりたり。広大なる空間を歩くことにす。ナニモノカは特に何も言及せざりたり。ある程度自由に行動して良きやうであり。
僕たちが使ひてゐたると同じきやうなる机が、灰色の床に転々と置かれてゐる。空きてゐる机は一つもなく、いづれも必ず使ひてゐる人がゐたり。人が椅子から立ち上がると、机と椅子のセットが空間から消える。さやりて無駄が生じぬやうになりてゐるみたいでありたり。
「これも、イミから逃れるため?」僕は歩きながら質問す。
「そう」ニルは前を向きたるまま答へたり。「いちいち、考えなくてよくするために」
広大なる空間がいづこまでも続きてゐる。歩くとこつこつと硬質なる音が響きたり。二人分の足音。それは、聞きてゐるだけでいづことなく落ち着く音でありたり。自分が歩きてゐるといふ感覚、隣に彼女が存在してゐるといふ感覚を、確かなるものとして僕に知らせる。やはり、それが音であるからであらむ。
テールランプの結末。
アルミホイルに包まれたるパンプキンパイ。
テーブルに生じる結露。
窓枠を象りたるブロンズ像。
スプーンの表面を覆ふクリスマスリース。
全体的に不穏なるマウスピース。
ニルは歩くが速くて、僕は彼女につきていくが大変でありたり。それで、途中で手を繋ぎてもらひたり。僕の方から申し出たるではあらず。誰かと手を繋ぐは久しき振りのことで、僕は少なからず動揺してしまひたり。心拍が速くなる。心拍が速くならば歩くも速くなるではあらぬかと考へたるが、それでは順番が逆でありたり。
ニルは、繋ぎたる手をぶんぶんと振りて歩く。二人の腕を縄にして跳ぶことができさうなる勢ひでありたり。もちろん、それを跳ぶ者はゐず。ナニモノカに呼びかけらば、跳びてくれるかもしらぬが。
「昔はね、死ぬのが怖かったんだ」ニルが話したり。「そんなことばかり考えていた。死んだらどうなるのかとか、死ぬ前に何をするべきなのかとか、そういうことを考えて毎日を過ごしていた。それだけで、一日が終わるような生活だった。布団に入っても、頭の上でそのことがぐるぐる回っていて、見ているだけで窮屈な気持ちになった」
「それは、随分と大変そうだね」
「大変だった。実際に、死にそうになったこともある」
ニルはこちを見ず。
僕は彼女の顔を見てゐたり。
「でも、あるとき、部屋を囲む壁の表面に入り口ができて、ここへ来ることができた。そして、自分が病気だということを知った。だから、治療してもらった。それからは、死について考えることはなくなった。病気って怖いよね。自分が病気にかかっているときは、病気にかかっていることに気づくことができないんだから。恋なんかと同じかな。誰かを好きでいる間は、自分がどれほど相手を想っているか気づかない」
「誰かを好きになったことがあるの?」
そこで、ニルはこちを見たり。
目が合ふ。
「あるよ」彼女は小さく頷く。「でも、その人は死んだ」
数分歩きたるところでニルは立ち止まり、僕の手を離したり。後ろを振り返りても、もう先ほどまで僕たちがゐたる場所は見えざりたり。
辺りに人はゐず。本当に、灰色の天井と床が四方に広がりてゐるだけであり。海と同じといひて良し。
ニルが指を鳴らすと、天井と床から本棚が勢ひ良く生えてきたり。天井からは奇数組が、床からは偶数組が姿を現して、指を組むやうに互ひに干渉せざる位置に本棚が整列す。
「色々あるから、好きなものを選ぶといいよ」こちを振り返りて、ニルが言ひたり。「きっと、貴方に合う一冊が見つかるはず」
僕は本棚の隙間に身体を滑らせたり。それほど狭きわけではあらぬが、緊張してゐるか、僕の身体はそのやうなるふうに動きたり。
色々なる本があるが、いづれも背表紙には何の文字も描かれてゐぬから、如何なるやうなる本か分からず。
緑色の装丁。
青色の装丁。
茶色の装丁。
黄色の装丁。
紫色の装丁。
赤色の装丁。
黒色の装丁の本に僕は手を伸ばす。
先ほどニルが読みてゐたる本よりも遙かに小さく、手に収まるほどのサイズでありたり。少しだけ埃を被りてゐて、僕はそれを手で払ひたり。表題が見えるやうになる。
「精神分析」と書かれてゐたり。
それは、そこに存在してゐてはいけぬはずの本であり。
頭上でアラートが鳴る。
ニルが本棚の隙間に入りてきたり。
「どうして、そんなものが……」
突然、地面からナニモノカが姿を現したり。
「時間切れです」ナニモノカが告げる。「またのお越しをお待ちしております」
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