第2話

 かつて、この場所にはイミといふ名の病気が蔓延してゐたるらし。その病気にかかると、人々は何もする気力がなくなるとのことでありたり。酷き場合であると、自ら命を絶つ者もゐたるらし。それは、自分の生き様が無であるやうに思はれてしまふ結果でありたり。無である自分に存在する価値などなし、と考へる傾向が見られたるさうであり。


 多くの人々がその病気にかかりたり。さして、かかりてゐぬ人の方が少なきほどになりたるから、やがてそれは病気として見なされずなりたり。けれど、あるとき、一人の歴史学者が現れて、それが正しき状態ではあらぬこと、すぐに是正すべきであることを説きたり。それ以降、人々は自らを顧みるやうになり、イミを発症してゐることを自覚するやうになりたり。


 イミは消えつつあるが、まだ完全には消えてゐず。イミは、特に本を読むときにその者を蝕まむとす。文字で書かれたる本であるとまずし。であるから、ここには文字で書かれたる本が一冊もなし。ニルが読みてゐたるあまりにも大きその本は、昆虫の実寸大の写真が載せられたる図鑑でありたり。


「面白いんだよ。こうやって、掌にかざして、その上に載るかどうか確かめながら読むんだ」


 さ言ひて、ニルは実際に実演してみせる。何匹程度ならダンゴムシが手に乗るかも教へてくれたり。丸まりてゐるときと、さであらぬときで、手に乗る数は異なるらし。計算したることがありとのことでありたり。数字も文字には違ひなきが、一応、この場所でも使用が許されてゐる。それは、数字によりてイミが発症したるケースがなきからであり。


「君は、いつからここにいるの?」僕は尋ねたり。「どうして、ここにいるの?」


「いつからかは、分からない。もう、ずっと、ここにいる。外には行けないよ。私、治療を受けているんだから」


「治療?」


「そう。イミにかからないための治療」


 さ言ひて、ニルは自分が着てゐる衣服の袖を捲る。見ると、皮膚に五本の線が刻まれてゐたり。始まりと終わりに垂直に線が交差してゐる。奇妙なるマークもありたり。八の字を少し変形して、繋がりを絶ちたるやうなるマークであり。


「それが、治療なの?」


「そうだよ」ニルは答へたり。「ここにね、その治療をしてくれるお医者さんがいるの。トロンボーンを持ったお爺さん。その人に助けてもらったんだ。そうしてもらわなかったら、たぶん、私もイミにかかっていたと思う」


「外に出ると、イミにかかる可能性があるから、ここにいなければいけない、ということ?」


「そうそう。話が分かる人だね。君は、たぶん、イミにはかからないよ」


「どうして?」


「私の話が分かるから」


「僕は、外にいたんだ。もしかすると、僕もすでにイミにかかっていて、君に移してしまうかもしれない」


「その心配はないよ。ここに来る前に、診察を受けたでしょ?」


「診察?」


 思ひ返してみても、そのやうなるものを受けたる記憶はなかりたり。


「すでに確認済みですので、ご安心を」


 唐突に、頭上から声が聞こえたり。ナニモノカの声であり。頭上からといふよりも、それは僕の頭の中に直接語りかけてくるやうで、ニルには聞こえぬみたいでありたり。


「はああ、ちょっと疲れたな、私」さ言ひて、ニルは机に身を預けたり。腕をクロスして枕の代はりにし、その上に頭を載せて突き伏したる格好になる。


「眠るの?」僕は尋ねる。


「別に、眠らないけど」ニルは答へる。「まあ、眠ってもいいかな」


「二つ目の質問に答えてよ」僕は言ひたり。「君は、どうしてここにいるの?」


 僕がさ尋ねると、ニルは閉ぢてゐたる瞼を薄く開けて、目だけで僕を見たり。上目遣ひといふやつであり。それだけ見ばキュートに感じられぬもなきが、いづことなく妙なる気迫がありて、であるから、あまりキュートではあらずと言はぬをえざりたり。


 数秒間、ニルはさして僕を見てゐたり。


 それから、勢ひ良く人差し指を立てて、それを自分の口の前に持ちてきたり。


「何?」僕は首を傾げる。


「それ、言っちゃ駄目だから」ニルは言ひたり。


「駄目って、どうして?」


 ニルは完全に起き上がり、手を伸ばして僕の口を塞ぎたり。


 冷たき感触。


 すぐ傍に、鋭き瞳。


 微かに揺れてゐる。


「いい? そういうことを、ここでは言ってはいけない。次言ったら、排除するから」


 僕は彼女の目を見る。


「イミにかかる」ニルは言ひたり。「口にしてはいけない」


 よく分からざりたるが、僕はとりあへず頷くしかなかりたり。一回頷きても彼女は手を離してくれざりたるから、何度も頷くはめになりたり。こういふ人形がありたるやうなる気がす。最後には腕が両方とも外れて、産業廃棄物として処理されるではあらざりたるか。


 ニルは、またもとの位置に戻りて、目を閉ぢたり。


 僕は、イミにかかりてゐるかもしらず、と思ふ。


 いや、かかりかけてゐるか?


 とりあへず、如何にして、と訊くは駄目みたいであり。


 それは如何にしてであらむと思ひたるが、思はざりたることにしたり。

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