パラダイム・シフト

羽上帆樽

第1話

 その場所では、何が起こるか分からざりたり。何が起こるか分からぬ理由は二つあり。一つは、その場所にゐる人々が、誰も口を利かぬといふこと。もう一つは、利きたるとしても、その場所を去らばすべて忘れてしまふといふこと。


 その場所に来るまで、僕はその場所につきて知らざりたり。その場所に立ち入る前に、入り口の所に掲示板がありて、そこに書かれてゐることを読みてようやく知りたり。であるから、僕は別にその場所に興味がありたるわけではあらず。たまたま歩きてやりて来て、何となく、単に通り過ぎるを躊躇ひたるにすぎず。


 太陽の光はなかりたり。頭上は一帯が灰色の天井で覆はれてゐる。壁はなかりたり。いづこまでも行けさうであり。床はあるから、中身のなきサンドウィッチのやうなる状態になりてゐるといえるであらむ。もっとも、僕はサンドウィッチがあまり好きではあらず。昔の人間はあれが食べやすかりたるみたいであるが、如何にして三角形にしてしまひたるであらむと、僕はいつも不思議に思ふ。


 正方形を斜めに折らば、その線分の長さはルート二となる。


 誰もが知りてゐることであり。


 けれど、実際に折り紙でさしてみても、さはならず。


 如何にしてであらむ?


「その疑問にお答えするためには、貴方の理論形式を変えなければなりません」


 突然背後から声がして、振り返ると、人間が一人立ちてゐたり。いや、本当に人間であらむかと僕は疑ひの気持ちを抱きたるが、それを口に出すやうなることはせざりたり。失礼に当たると考へたるからであり。


「どういう意味ですか?」不思議に思ひて、僕は尋ねたり。


「そのままの意味です」人間らし何かが答へる。「何事かを理解できない場合、その原因は二つ考えられます。一つは、自分に理解しようとする気がないということ。もう一つは、理解するために用いる理論形式が間違えているということ」


「ええ、それは分かります。僕が尋ねているのは、どうして、あなたが、そんなことを僕に尋ねるのか、ということです」


「なるほど。ビーフシチューのような返答だと評価できます」


「どうして、ビーフシチューなんですか?」


「甘くて、蕩けて、美味しいから」


 さ言ふと、人間らしそれは、その場で一回転したり。一回転すると、今度は二回転して、二回転すると、今度は三回転したり。さしてぐるぐる回りてゐる内に、床に穴が開きてく。ちょうど螺旋を埋め込むやうなる感じであり。やがて、その人間らし何者かは、すっぽりと床の中に収まりてしまひたり。


 けれど、声だけが聞こえる。


 頭上から、先ほどの何者かの声が響きたり。


「ようこそ、お出でくださいました。私がご案内いたしましょう」


 ご案内いたされるつもりはなかりたるが、僕はその好意に甘えることにしたり。甘えるは僕の得意技であり。今までは甘えられる対象がなかりたるから、なかなかその技量を試す機会がなかりたるが。


 人々は、皆、椅子に座りて本を読みてゐたり。携帯電話とにらめっこをしてゐる者は一人もゐず。ここには一切電波が届かざるらし。さいふルールであるさうであり。僕は普段からまったくといひて良きほど携帯電話を使はぬ人間なるで、それでも全然問題はなかりたり。


 空間を規定する天井と床と同じきやうに、人々もまた灰色に染まりてゐるやうに見えたり。僕の目が灰色に染まりてゐるといふ可能性もあり。最近鏡を見てゐぬし、見たるとしても、そもそも、僕の目が灰色に染まりてゐるであらば、意味がなし。


 頭上から響く声の主(以後、ナニモノカと呼ぶことにせむ)に従ひて空間を進み、やがて一つの机の前で立ち止まりたり。


 机には椅子が二つありて、その内の一つに少女が一人座りてゐたり。彼女は、彼女の体躯の二倍くらいありさうなる本を膝の上に広げて、それを読みてゐる。片方の手で本のページを押さへ、もう片方の手で自分の少し長めの髪を押さへてゐたり。どちらも押さへるといふ言葉で表現可能なる動作なるに、実際にそれが意味するところは違ひてゐる。


 立ち尽くす僕の存在に気がつきて、少女がゆっくり顔を上げたり。


 大きすぎる目。


 左側、一部分にのみ施されたる黄色のエクステ。


 さして、溜め息。


 栗色がかりたる、本当は茶色かりたるであらむ髪が、粉雪のやうに目もとに被さりてゐたり。


「彼女が、貴方を待っていました」何も言はぬ僕に代はりて、ナニモノカが僕に言ひたり。


「こんにちは」少女が小さなる声で言ひたり。想像したるよりも、澄みてゐて綺麗なる声でありたり。けれど、いづこか安定せぬ印象を受ける。


「どうして、僕を待っていたんですか?」


「別に」僕が尋ねると、彼女は端的に答へたり。「私は、ニルと言います。どうぞ、よろしく」


 ニルと名乗る少女に促されて、僕は彼女の前の椅子に腰を下ろしたり。ニルは、暫くの間僕をじっと見つめてゐたるが、やがて読みてゐたる本を閉ぢると、勢ひ良くこちに顔を近づけてきたり。


 僕は後ろに身体を反らす。


「びっくりした?」ニルが笑ひたり。「ねえ、びっくりしたでしょ?」


「びっくりしたよ」僕は応答す。


「そうだよね。絶対、びっくりすると思ったんだ。でも、びっくりすることに、びっくりしちゃった。ここでは、誰もびっくりしないから」


「ここは、どこ?」僕は尋ねる。


「ここは、ここだよ」ニルは答へたり。「携帯電話で調べても、出てこないんだから」

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