第127話 大人の味と、愛の香り

 その日の夜は眠れなかった。

 明日も休みなので、クロエと夏芽姉さんは鷹崎家に泊まり込みで遊びに行っている。


 考え事をするには丁度いい夜だ。


 そう思って階段を降りてリビングに向かうと、ソファに人影があった。白龍先生が明かりもテレビも点けずに、佇んでいた。


「…まだ起きてたの」


 僅かに呂律が回っていない。お酒が入っているんだろうか。


「それ、俺にも下さい」

「ふふっ、教師って立場で、未成年飲酒はさせらんないなぁ…」


 いつもよりフワフワしている。テーブルに置かれたLEDの洒落たランタンに照らされた白龍先生は、眼鏡を掛けておらず、髪も下ろしている、一緒に住んでいてもあまり見ない新鮮な姿だった。


「…こっちおいで」


 そんな声に誘われて隣に座る。

 ウイスキーグラスに口を付けて、くすっと微笑む。そんな白龍先生の珍しい姿に目を奪われていると、不意に頬に冷たい手が触れた。

 暗闇の中で気付かなかったその動作に動揺していると、次の瞬間、眼前には白龍先生の綺麗な顔が迫っていた。


「んっ…」

「ちゅ…んんっ…」


 少し濡れていて柔らかい唇の感触。舌を入れられると、共に割り込んでくるのは甘いバニラとアルコールの香り。


 ディープキスと一緒に突然ウイスキーを口移しされ、口から溢れて雫が顎を伝い、心地の良い刺激喉を通った。


「…んっ……美味しい?」


 キスとお酒の柔らかな余韻を感じながら、まだ唇が触れ合うくらいの距離感で、白龍先生はそう聞いて来た。


「…キスもお酒も、大人の味って感じです…」


 痛みを感じるくらいに心拍音が大きい。お酒のせいか、それともこんな事をしているからだろうか。


「これは飲みやすいと思うけど」

「………先生にキスされる背徳感よりは、飲み込みやすいかも知れませんね…」

「うまいこと言うね」


 小さく微笑み、もう一度キスをした。さっきのキスで口から少し零れたウイスキーを舐め取りながら。


 鼻に抜ける甘い香りは、ウイスキーの香りか、それとも白龍先生の香りなのか…。


 どう考えても酔っている、たがが緩んでいる。

 今になって思うと、酔ってる白龍先生を見るのは初めてだった。


「……ちゅ…ん、っは……。ふふ、真は可愛いね」

「…飲み過ぎじゃないですか…?」

「んー…今日くらいは良いでしょ」

「…今日…?」


 今日は10月8日…いや日を跨いでいるから9日だ。


「あぁ…先生、誕生日ですか」

「せいかい…。ご褒美にもう一杯」


 …こんなんじゃ、考え事できないな…。


 湊さんも、そして二ノ宮誠父さんもそうらしいが、ウチの家系は皆揃ってお酒にとても弱いらしい。

 俺自身も、美月にお酒入りのお菓子を食べさせられただけで記憶が混濁する程度にはアルコールに弱い。そして、どうやら白龍先生もそうらしい。


 二度目の口移しは、一度目と違って殆ど零さずに飲み干して、さっきよりも長く、甘く、キスを続けた。

 鎖骨の辺りにまで舌を這わせてくる白龍先生の行動に、思わずお酒じゃなくて苦笑いを零した。


「…先生、俺達一応、書類上は親子ですよ…?」

「……ん…先生なのか親なのかハッキリしてよ」

「今更、お母さんとか、白龍さんなんて、呼べないです」

「…じゃ、呼び捨てにして」

「先生って呼び方は嫌ですか?」

「……君だけの先生じゃないから、ね」


 不味いよな、やばいよな、絶対に良くないよなって、頭では分かってる。


 分かってるけど、自然と体が動いている。

 蒼黒の髪に指を流して、うなじに手を置いてそっと抱き寄せ、耳元に顔を寄せた。


「あんまり、ワガママ言うなよ、

「…っ……!」


 最近、周囲から向けられる感情に、俺自身の気持ちが追いついて来ないのを自覚して色々とストレスを感じていた。

 そんなので折れる質ではないけど、何だかんだ言って、多くの人から純粋な好意を向けられるなんてのは、初めての事なんだ。

 俺にだって分からなくなる事はある。

 …取り敢えず、この状況は絶対に良くないよな…ってのは分かるけど…。


「……これ、やばい……。キュンキュンする…」


 …この人って、今日で……36…かな。

 …来月俺の誕生日って考えても、20歳差か…そりゃ、色々やばいよなぁ…。


「…真も、ドキドキしてる…」


 いつの間にやら胸元に頭を置いて、俺の心拍音を耳で感じていた。


「……教師としても、親としても、人としても最低で、失格だなぁ…私…」

「そうだとしても、俺は白龍先生のこと、愛してますよ」


 不思議と、そんなセリフを口にした。本心ではあるが、今更口に出して言う事でもない、当然の事だ。

 俺にとって、恩師で、家族で…。


 ………家族……なの、かな…?俺にとって白龍先生は…。


 ふと、白龍先生に力強く抱き締められた。


「…うん…私も、愛してる。“湊に似てるから”とかじゃなくて、君自身を…。君の全部を、愛してるよ…。だから…」


 涙声を振るわせ、白龍先生はゆっくりと顔を上げた。頬を伝う雫を見た時、自分の目元にも冷たい痛みを覚えた。


「……だから、他の誰かに代わって欲しいとか、生まれて来なきゃ良かったとか、そんな事…もう冗談でも、言わないで…。ここに居る君は、君でしかないんだよ…」


『君は君のまま』…って…………誰かにもいわれたな。


 それと一緒に、凛月の言葉を思い出した。

 恋と、愛の違い。


 恋は盲目的で、一方的な強い興味や独占欲。

 愛は相手を尊重して、思い遣る感情。

 ……だったかな。


 凛月は俺を愛していると、恥ずかしげも無く言っていた。

 俺だって、白龍先生のことは純粋な気持ちで「愛している」と言葉にできる。愛されてるとも、思っている。恩とか関係なく、自分に向けられるその親愛には、いつだって応えたい。


 …それなら、俺は……。

 他の誰に対してなら…。

 同じ言葉を掛けられるのだろう?

 同じ想いを向けられるだろう?


 …いや、言葉に出来なかったから、その想いを抱いていなかったから、俺は泣いて走り去る凛月を呆然と見送ったし、美月の告白を遮った。


 …俺は………。


「…分かりました。…俺は、俺です」

「…………」

「……先生…?」


 小さな寝息が聞こえて来た。

 お酒のせいか、それとも泣いてしまったからか…。

 その両方か…どちらにせよ、俺のせいだ。

 眠りに落ちてしまった白龍先生を横抱きにして、寝室へ。

 ベッドに寝かせて、毛布をかぶせ、俺はもう一度リビングに戻った。


 冷たく濡れたグラスの中、溶けた氷で薄まったウイスキーを飲み干して、グラスと酒瓶を片付ける。


 体を動かしている間も、片付けを終えてソファに戻ってからも、俺の頭の中には同じ言葉が何度も響いていた。


『君は君のまま』


 ……いつ、誰が言ってくれたんだったかな……。


 ………………あ………霧崎か。

 養子に入って名字が変わるって話をしたときに、


 …霧崎に対して、そんなに大きな気持ちとか、特別は感情ってのは無い。

 ただ、あえて言うなら昔の姿と比べて「良かったな」って素直に感じてる。

 親心って程ではないが…。少し遠くから鳥の巣立ちを見届けた様な気持ちがある。

 それはもしかすると、愛だと言えば、愛なのかも知れないけれど……。


 …そう、俺なんかに構って燻ってないで、もっと皆に見られて欲しい。霧崎紫苑って女の子は、こんなもんじゃないんだって、俺はなんとなくそう思ってる。同じ様な気持ちを、真冬や南に対しても抱いている。


 ……だから、きっとそんなんじゃなくて……。


「ちっ…」


 二階の自室に戻る気力がなくなり、ソファに転がって、まぶたを閉じた。ここにはまだ白龍先生の香りが残っている。


…泥沼にでも、浸かっている気分だった。

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