第108話 待ち合わせ
一週間ほどは霧崎と橘の二人と共に過ごした後、二人が帰ってからのこと。
夏休みの半分以上を俺は一人、旅館で過ごした。
本当に良い時間だった、久しぶりに何も考えずにただ気の向くままに課題をこなしたり街をふらついたり。
意外なことに、特別な事は何も起こらなかった。
怪我もしなかったし、車に引かれそうになることも無かった。
一生これで良いんじゃないかなって思ったけど、それ完全に天音さんのヒモだし、流石に駄目だよな。
さて、そんな訳で俺は晶の母親である亜紀さんが運転する車に黒崎宅まで送迎してもらっていた。
途中、少しの会話はあったが…どれだけ仲が良くとも友達の母親と話すことってのはあまりない。まして、行ってる高校も違うわけだから話題は少ない。
「…あ、すみません…亜紀さん。ここまでで大丈夫です」
「? まだ大分…」
「歩いて帰ります、ちょっと行きたい所あるので」
「…そう。なら、またね」
「はい。ここまでありがとうございました」
走り去る車に軽く会釈、踵を返して歩き出す。
向かうは駅前、やはり一人だと滅多な事では視線を感じない。
俺のトラブル体質にも一段落付いたという事だろうか。もう怪我しなくて良いかな。
「午後三時…。丁度良いかな」
しばらくバスターミナル近くのベンチに座って待っていると、後ろからトントンっと肩を叩かれた。
声は出さず、立ち上がって振り向く。
周囲の人達が、思わずと言った様子で一様に視線を向ける様なとても整った容姿の美しい少女。
「おまたせ。あと、おかえり」
どことなく薄暗い夜空を思わせる様な艶のある黒髪は、肩にかかる程度まで伸びている。ロングカーディガンと膝丈のスカートが肌寒さを感じ始める秋風に吹かれて揺れていた。
「…どうも…。神里先輩、これからデートでも行くんですか…?」
一応、俺と待ち合わせしてた筈なんだけどな。夏休み入ってから殆ど話せてないから会いたいと言われ……てはいない。ちゃんと用事がある。
先輩は少しだけ不満そうに目を細めた。
「遠回しな言い方するね」
「…先輩の私服初めて見たけど、良いと思いますよ」
思わず見惚れるくらいには、とは口に出さないでおく。大人しい雰囲気に見えて結構しっかりお洒落して来てるように見える。
「初めてだっけ?」
「そうですよ。何だかんだ言って、俺達かなり付き合い短いですからね」
「…もっと深い関係になりたいね」
「誤解しそうな言い方は止めてください」
「してくれても構わないけど。それと、二人の時にまで敬語は無しって、前に言わなかった?」
「『神里先輩とは呼ばせない』みたいな事は言われましたね」
流石にユヅとは呼べませんからね?と視線で圧をかける。
しばらくじっと見合ったあと、彼女は観念するように、どこか寂しそうに息を吐いた。
「…じゃあ、二人の時は結月で。他に居たら結月先輩…で良いよな。だからその寂しそうな顔は止めろ、なんか心に来るから」
普段感じない類の罪悪感を覚えさせられる、どこか心臓に悪い彼女のしゅんとした表情に俺は妥協案を出した。
これが霧崎だったら問答無用だけどな…この人にそれは無理。
「…ユヅ」
「それは無し」
「どうして……?」
「冷静に考えて、年上の先輩の女の子相手に愛称呼びって絶対バレた時に色々言われるからな…特に霧崎とか雨宮とかに」
「……」
「悪いけど、こればっかりは機嫌取りとかする気は無い。てか、そもそもの話、俺が誰かと愛称で呼び合ってるのを一回でも見たか?」
そこの線引くらいはしっかりとしているつもりだ。というより、その線引が俺にとっては超えるのが難しいハードルだというだけ。
じゃないと本当にただの女たらしだ。そうなりたい訳じゃないから良いんだけど。
変な話、キスよりハードル高いよ。美月ですら呼び捨てなわけだし。
「…まあ、それは良いんだよ。そろそろ行こう」
「諦めないからね?」
…いや、まあそこは好きにすればいいけどさ。呼ばないよ?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます