第94話 手の届く距離

 いつからか、なんて覚えてない。

 それでもあえて言うならば…初めて会った時から、なのだろう。


 いつ自覚したのかも分からない。

 そうなるとやはり最初から、自覚はあったんだと思う。


 …真には、手の届く場所にある月が美しく思えるんだろうか?


 物心ものごころがついた時には、隣りに居た存在。


 幼馴染みだから、隣の家に住んでるから、一緒に居る時間が長いから。

 理由なんてその程度だろうけど、それでもあえて、この時に…と言うなら、それは小学6年生になってから半年ほど経過した、秋頃。


 修学旅行の時のことだ。


 六年間ずっと…真と私は同じクラスだった、それは偶然だと思うけど、奇しくもその年は凛月だけは別のクラスだった。


 私と真は同じグループだった。

 当然ながら宿の部屋も近かったから、私は真と旅館の暗い廊下で話をしていた。


 話と言っても、おかしな事ではなく…その日に行った国会議事堂やなにかについて語り合っていた程度だ。


 真面目な児童ではなかったが、少し興味のあった場所だけに見聞きして感心したのを覚えている。


 とっくに消灯時間は過ぎていたから、見回りの先生が来た時に…私は咄嗟に真の手を引いて窓から旅館の外に出た。


 今考えると、本当に大胆な行動を取ったな…と思う。

 当時は何だか、そんなワルガキらしい行動がとても新鮮で楽しかった。

 私も真も、周囲と比べると余りにも達観していた気がするから。


 スリッパのまま旅館の中庭を歩いて、ふと夜空を見上げた時。


 雲一つ無い空を煌めく星々と、目を見張る程に大きな満月がとても美しく見えた。


「…おっきい…。こういう所で見ると、綺麗」

「そうかな。月なんて…いつ、どこから見ても綺麗に見えるだろ」


 そんな夜に、真はつまらなそうに呟いた。

 いつもと同じ無表情で、生気のない瞳で夜空を見上げながら。


「なあ、夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』って訳した逸話が有名だけどさ…。俺あの話、何回聞いても意味分かんねえんだよな…」

「…遠回しな表現の方が、日本人の奥ゆかしさが感じられる……みたいなことから、そう言ったんじゃなかった?」

「そうそう、そういう話。でもさ、冷静に考えても見ろよ?」


 そう言うと、彼はまっすぐ、月に向かって手を伸ばした。


「…月って絶対に届かないよな」

「……それが?」

「好きな人だったら、手の届く場所に居て欲しいと思うんだけど。まず人を好きになった事がないから分かんねえけどさ…」

「…高嶺の花のほうがマシかな」

「結局届いてねえじゃんそれ…」

「…たしかに…」

「あ、でもさ…」


 ふと、思いついた様に…真は私の頬を指でつついた。


「美月も同じ『月』…なんなら、『美しい月』なのに、いつも俺の手が届く所に居るよな」

「っ…!」


 凛月はよく居なくなるけど、なんて言いながら彼は笑みを浮かべた。


 彼は、満月なんて比べ物にならない程に可憐な微笑みを見せてくれた。

 きっとこの時だろう、真の心からの笑顔を初めて見たのは。


「…幼馴染み、だから…」

「そうだけどな…。日によって形の変わる月と違って、美月はいつも同じだろ。なんかそれって、本当に『美しい月』って言われても納得行くよな。毎日満月…みたいな」

「…真にとって、私は満月なの?」

「…ん…。いや、月より綺麗だと思ってるけど」


 笑顔を崩すこともなく、平然とそう言ってのけた。それが当然だと言わんばかりに。


 夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳した。

 だとしたら、彼の言った言葉にはどれほどの想いが詰まっているんだろう。


『月が綺麗』…ではなくて…『月よりも綺麗』だと言ってくれた。


 小学生ながらに好きな人からそう言われたのが、どうしようもなく嬉しかった。

 どうか、この時間がずっと続きます様に…なんて、満月に願ってみたりして。


 でも、真の近くには沢山の人が居る。

 私が手の届く場所に居られる時間なんて、今だけなんだろうな…。


 それから少しして、流石に寒くなって、部屋に戻って寝たけれど。




 そこだ。すぐそこなんだ。


 手を伸ばせば触れられる。


 真の隣に居られる、頬に触れて、唇を重ねられる、この距離に居たい。

 痛みで、苦しみで、辛さで涙を流させたりはしない。


「あなたのこと──


 そう思って必死に紡ごうとした言葉は、彼の悲痛な叫び声に遮られた。


「止めてくれ!!」

 ──えっ…?」


 …あっ…。


 何でもっと、早く言えなかったんだろう。


 …そんなのは分かってる。


 怖かったからだ。


 いつも傷付いていて、不意に見せる辛そう、苦しそうな表情が。

 …そんな表情を、見ていたくは無かった。


 でも私なんかがそばに居たところで、力になれないって…心のどこかで思っていた。

 寧ろ私が居たら、余計に傷つける結果になるかも知れないから。


 彼のことを支えてくれる人は沢山居る。


 そう割り切って居たのに、時間が経つに連れて…真は傷を増やしていった。


 いつからか、縋る様にメッセージを送って来る様になった。

 私じゃダメだった。

 私じゃ、助けられない。


 黒崎先生の真似をして、どうにか体を重ねたりしてみたけど…胸に空いた穴を埋めることはできなかった。

 強引なやり方しかできなかった。


 …やっぱり、いつも誰かを助けてる真のことを助けられる程、私は出来た人間じゃないんだよ。


 そう思っていたのに、誰も彼を助けてくれなかった。


 もしかしたら、私だったら…助けられていたのかも知れない。

 少なくとも…彼は私に手を伸ばしていたのに。


 一瞬でもそう思ったら、もう…。


 言葉にしなくても、私の気持ちは届いている。


 言わなくても分かってる。それなのに…いや、だからこそ私は、真の心を傷つけたんだ。

 他の誰かと同じ様に。


 こんなに自分の愚かさを後悔したのは初めてだった。


 タイミングを間違えた。


 必死になりすぎて自分の事しか考えて無かった。やっぱり他の誰かと同じなんだ、私も。


 やっぱり私なんかじゃ、真の隣には立てないんだ。


 また、こんな顔をさせてしまった。


 今にも泣き出しそうな、悲愴な感情を押し殺そうとしていて…見てるこっちまで辛くなる。


 ……そして、心臓を握りしめられるくらいに、どうしようもなく美しいその表情を。


 私はただ、そんな真を瞳に焼き付けることしかできなかった。

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