第90話 月は昇る

「…真は、産まれてきた事を…後悔してますか?」


 こんな言葉、素直に首を横に振れば良いだけだ。


 でも、それができなかった。


 素直に反応した結果がこれだったから。


 紗月さんの言葉には、目を逸らして俯く事しかできなかった。

 俺はそんなに、出来た人間じゃない。


「…『要らないなら産むなよ』って思った事は何度もあります」

「…っ……!」

「生きてるだけで、体も…心も傷付いて、何の為に…誰の為にここに居るんだろうって、何回も自問自答して…」


 俺は一人になると、そんな事ばかり考えていた。絶対に辿り着かない終着点を目指して、くだらない自問自答を繰り返した。


 結論なんか出ないと分かりきってるのに、何度も、何度も、意味もなくひたすらに。


 降りかかる災難は、避けることも、誰かに押し付ける事も出来なかった。

 数少ない、母の教えによって身を傷付けることになると分かっていても。


 …でも、そんな体の傷が、心の傷が。


 胸の内に未だ残る消えない痛みが。


「…何処にいるかも分からない母さんとの繋がりが、ここにだけは残ってるって思ってました。だから、どんなに辛くても苦しくても、嫌々だったとしても…。怪我するのが嫌だって思った事は無かった。人の為に傷付いてる内は、誰かの役に立ってるって“自己満足”があったから」


 そう、結局のところ、自分の為だ。

 自分がここに居て良いんだ、自分は価値のある存在なんだと、そう思える気がしていた。


 自己承認欲求とも言い換えられるだろう。


 誰かに認めて欲しいのではなく、自分で自分を認めたいという感情。


 周りの評価なんて、気にならないし気にしても意味がない。

 少なくとも、そういう立場に居る自覚があったから、気にしなかった。


 でも、自分で自分の事を認められないのは、怖かった。


 そしてそれは最近になって、余計に強くなっていった。


 単純な話だ。


 今の自分が、“間宮真”なのか…“黒崎真”なのか、それとも他の誰かなのか、それが分からなくなった。

 間宮真は黒崎真を認められているのか?その逆もまた分からなかった。


「…じゃあ……あれは、本心なんですか?」

「……“誰かが代わってくれるなら代わって欲しい”ってのは…。本心、本音…に間違いない…です」


 俺が誰かの代わりになれない様に、誰も俺の代わりなんてできないし、やってくれないだろう。

 そんなのは分かってる。


 ないものねだりだ、俺がどう思おうと自由だろう?

 言うだけなら、思うだけならタダだ。


 それでも、その言葉が紗月さんを酷く傷付けた。


 その気持ちが真実であるかを確かめたがるくらいには、心に響いてしまった。


 自分の一言、ワガママで産まれてしまったその子の本心を、聞いてしまった。


「…真は…自分を産んだ母親を…。凛さんを、恨んでますか…?」

「……YESかNOで言えば限りなくYESに近いんでしょうけどね。唯一母さんに教えられたのなんて、無償の人助けとドイツ語だけですから。でも…素直に恨んでる、とは言い切れません。毎夜、健気に母親の帰りを待ってた自分の事まで否定するのは嫌だから」

「……なら、凛さんだけの事なら、否定するんですか?」


 どうだろう、微妙な所だ。

 俺は別に母さんが嫌いなわけじゃ無い。


 ただ、一つだけ言えることはある。


「…俺が“母さん”って呼ぶのは、間宮凛その人だけです。それは絶対に譲れません。俺がどれだけ母さんを否定しようとしても、それだけは…絶対に変わらない…ってのは、断言できます」

「そう…ですか……」


 紗月さんは少し嬉しそうに、でも何処か寂しそうに頷いた。

 納得の行く答えにはならなかっただろう。


 でも人の感情なんてそんな物だ。

 自分でも分からなくなる事だってザラにある。


 それは俺が不安定なだけなのかも知れないけれど、結局の所…吐き出しきった感情が出ていった、胸に空いた穴を自分で埋める術は見当たらない。


 そこには少しの痛みが残っているだけだった。


「紗月さんの疑問に正直に答えるなら、俺は『産まれた事を後悔したことはあった』と答えます。それは事実ですから…」

「………」

「…でも、どうあったとしても、結局俺は俺です。そこには嘘も偽りも無い」

「っ…!」


 蒼穹の瞳が大きく揺れ動いた。


「紗月さんがそう言ってくれるなら、俺はきっと、ここに居て良いんだと思います。代わりの誰かじゃなくて、“間宮真”も“黒崎真”も…ここに居て良いって」


 自分で自分を認められないなら、せめて自分以外の誰かには、ここに居る“真”という存在を認めて欲しい。


 少なくとも紗月さんは、俺の存在を望んでくれた。


「…紗月さんは、俺がここに居て良いとおもったから…“真”って名前を付けてくれたんですよね…。なら俺は、これからも自分で自分を認められる様に、誰かを助けるんだと思います。………それが、間宮真…黒崎真っていう、人間ですから」


 …俺は母さんに、産んでくれてありがとう、なんて綺麗事を言うことはできない。

 母さんも、多分そんな事を言われたくて産んだんじゃない。


 でも、俺は紗月さんに言えることがあると知った。


「俺は、紗月さんが願いを込めて付けてくれた「しん」って名前を…誇りに思ってます」


 それは俺の、嘘偽りの無い本心だった。


 就寝前に見上げた夜空、どうしようもなく美しい満月の光が、ただひたすらに燦々さんさんと輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る