宗教
私には、男手一つで育ててくれた父親がいる。
母を早くに亡くした私にとって、父は唯一の家族であった。
私には持病があった、定期的に高額の薬が必要だった。
貧しかった私たちが薬を手に入れるには、父は多額の借金をしなければならない。
「お前は心配しなくていい。お父さんが何とかする」
そう言って父は、私に笑顔を見せた。
けれども、その笑顔が私の不安をますます掻き立てた。
借金をしたその日から、父は徐々に憔悴していった。
寝不足なのか、目の下には隈ができ、頬も若干こけてきているようだった。
「大丈夫なの?」
私がそう訊いても、父は「大丈夫だ」としか言わなかった。
そんなある日のことだ。私の持病が悪化した。
今までにない激しい発作が起こり、私は死を覚悟した。
その時、父は仕事で家におらず、意識を失った私を父が見つけたのは、空が藍色に包まれだした、深夜だった。
幸いにも私は一命を取り留めた。しかし、しばらく入院生活を強いられることとなった。
毎日お見舞いに来る父の姿を見て、私は心が痛んだ。
「俺がしっかり、お前のことを見ていれば!」
父は何度もそう言って、私に詫びた。
自分のせいで私がこんな目に遭わせてしまったと、自分を責めているようであった。
「お父さんのせいじゃないよ」
私はそう伝えたが、その言葉は父の心には届かなかった。
父のためにも早く良くなって、家に帰ろうと私は思った。
でも、治療には莫大な費用がかかるため、お金の問題も出てきた。
「どうすれば……」
私の中に焦りが生まれた。
そんな時だった。父が、久しぶりの笑顔を見せ、病室にやってきた。
「お前が助かる方法を見つけたんだ!」
私はとても嬉しかった。病気が治るかもしれないということもそうだが、それよりも、父が笑顔になってくれたことが、本当に嬉しかった。
「ほんと?」
「あぁ、本当だ!お前を助けてくれる人がいてな!」
「どんな人なの?」
「それは……」
父は言葉に詰まり、一度唾を呑み込んだ。そして私にこう告げた。
「それは……教祖様だよ」
「教祖様?」
「あぁ、そうだ。この病院にも教祖様はいらっしゃるんだ。その人に治してもらえるんだよ!」
私は父が何か怪しげな新興宗教にはまっているのではないかと思った。
確かに、最近はそういう宗教団体が増えているという話を聞いたことはあった。
でも、まさか自分の父が騙されているとは思いたくない。
「その人って、どういう人なの?」
「とても素晴らしいお方だよ。私たちのためにお金も出してくれるんだ」
「……怪しい宗教じゃないの?」
「そんなことはない!教祖様は困ってる人や病気で苦しんでる人のことを救いたいだけだ!」
父は大声を出して言った。私はその声量にびっくりしてしまった。
「お父さん、少し落ち着いて」
私がそう言うと、父は我に返り、小さく「すまない……」とつぶやいた。
「また明日、会いに行くから」
父はそう言い残して病室を後にした。
私はその後ろ姿を見て、複雑な気持ちになった。
それからも、父は毎日のように病院へ足を運んでくれた。そして、いつも「教祖様がお前を救ってくれる」と私に言った。
ある日、父が「聖書」といって、一冊の本を持ってきた。
「これを読むんだ」
父に手渡されたその本は、著者も出版社も書かれておらず、大きな三文字の題名が寂しく綴られていた。
『羊の夢』
私は本を開いた。ひどく古びたページだった。
内容は、…あまり覚えてはいない。ただ、文章として成立してはいなかった。
単語を机上にばら撒いて、その間を無理やり埋めたような文章は、中学生の私でも意図をもって書かれたものではないことが分かった。
父によると、この本は呪われているらしく、読んでしまえば死んでしまうという。
しかし、とある宗教を信仰し、教祖様を信じている者だけは、死を免れるそうだ。
そして父は、私こそが教祖様から選ばれた者であると言った。
私はなんだか気味が悪くて、その本を本棚に仕舞った。
父には、最後まで読んだということにして、話を合わせた。それから何日か経ったある日、父が突然私にこう言った。
「教祖様に500万円以上お金を振り込まなければならない」
「えっ?」
私は耳を疑った。
500万円だなんて、そんな大金を払えるわけがない。私は父に抗議した。
しかし父は「教祖様がそうしろと言ったんだ!」と怒鳴るように言った。そしてこう続けた。
「金のことなら気にするな。お前は心配しなくていい。お父さんが何とかする」
違うんだよお父さん。私はただ、一緒にいたいだけなの。
でも、それを伝えることはできなかった。急いでいるのか、お父さんは足早に病室を出て行った。
きっと今の父には何を言っても伝わらないだろう。
私は窓の外を眺めながら思った。
お父さんにこれ以上、私のことで苦しんでほしくない。
ただ、その一心で、私の心は埋め尽くされていた。
そこで、私は羊の夢を読んでみることにした。
分厚い本ではあったが、中身のほとんどは改行と空白で占められていて、その日の晩までには読み終えることができた。
最後のページを読み終わり、本を閉じる。
『死にたくない、生きたくない、でも死ぬしかない。どうすればいいのだろう』
その文章で締めくくられた本を、私は本棚にしまった。
きっと、遺書にその末文を記していれば、私が羊の夢を読んだことが、父にも伝わるだろう。
教祖の教えに背く私は、今屋上へと向かおうとしていた。
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