第三章 南へ

一 川の向こう

 翌朝、イェリンが目を覚ました時には、向かいの寝台はもう空っぽだった。掛布まで綺麗に整えられられているのを見ると、やはり几帳面な性格なのかもしれない。薬師を目指すのに、大雑把では立ちゆかないからそれはそうなのだろうけれど。


 そんなことを考えながら着替えを済ませていると、コツコツと何かを叩くような音がした。硝子ガラスのはめ込まれた窓の向こうで、青い鳥が羽をはばたかせている。窓に駆け寄って開くと、するりと部屋に入り込んでイェリンの肩に止まった。

 ピュルルルル、と歌うように鳴いた鳥の声は吹き込む風のように美しい。あいにくとイェリンは鳥の言葉は解さないが、青い鳥はその秘めた魔力で人の言葉を運ぶ。脳裏に直接響くような声は、師匠からのものだった。


 いわく、オルヴィクで起きた異変はそこにとどまらず、南へ行くほどに怪異や魔物による被害が増している。長老会議で被害の大きい地域での討伐が決議されたが、極彩色の炎との関連は未だ不明のまま。『大戦』の終結後も世界のあちこちで水や大地の汚染が問題となってはいたが、その対策もままならないのが現状なのだという。

 目新しい話はないが、つまるところはイェリンとラグナにこの先の道行に気をつけるように、という旅立ちの時と同じ忠告を重ねてきてくれたらしい。それともう一つ。


 ——極彩色の炎の魔力は可能な限り使わないように。


「どうしてですか?」

 青い鳥が答えることはない。そうわかっていても漏れた呟きに、鳥はただ首を傾げ、長い尾羽を翻しながらそのまま飛び立っていった。疑問を返信として預ければよかったのかもしれないが、師匠の性格からして素直に答えはくれないこともわかっていた。理由こたえは自分で見つけるように、という魔術師らしい迂遠な指導のあり方だ。あるいは人ならざる精霊ならではの。

 イェリンは窓を閉めながらそこに映る自分を見つめたが、今のところ心身ともに大きな変化はない。とはいえ、師匠は意味のない忠告はしない。ならば心に留めておくべきなのだろう。


「いやに深刻な顔だな」

「わっ……戻ってたの? こっそり忍び寄るなんて」

「あんたが気づかなかっただけだ。まあ、青い鳥しらせが来ているようだったから」

 肩を竦めながらイェリンを見つめるラグナの瞳は穏やかに澄んでいる。じっと見つめ返すと、ややきまり悪げに視線を逸らしたから、おそらくは青い鳥の伝えた内容もいたのだろう。

「その……盗み聞きするつもりはなかったんだが」

「別にいいよ。元々あれは届け先での秘匿性は担保されていないもの。もし必要なら樹灰の手紙トレデアシュブレにするはずだし」


 本当に機密事項であれば、とし白樫しらかしの樹皮から作られた魔法紙に書き付け、燃やした灰を小さな結晶に変えてシロガラスに運ばせる。その結晶は鴉に伝えられた『鍵』で一度だけ手紙に復号される。鍵が使えるのは一度きり、そのあとはまた結晶に戻ってしまい、残された美しい宝石が鴉への報酬となるのだ。光る物が何より好きな彼らはそうして秘密を運ぶ役目を喜んで担っている。

 なお、その爪とくちばしの鋭さは、手紙を奪おうとする不埒者には容赦無く振るわれることは、この世界では周知の事実だ。


「そうか、まあ、でもすまない」

 ラグナはそう言って頭を下げた。おそらくはその生来の資質は、決して歓迎されるばかりではないことを知っているのだろう。

「気にしないで。慣れてるし、本当にそうすべきではない時には、あなたはきっと耳を塞いでくれるでしょう?」

「……信頼はされているようだな」

「そりゃあもう」

 宿の主人から二人部屋に案内されても眉一つ動かさなかったな青年だ。多少の戸惑いくらいはあってもよさそうなのに、本人には何の疑問もないらしい。手慣れているのか、純粋なのか。どちらかというと後者だろうか。

「……余計なお世話だ」

「あら、そこは耳を塞いでおいて欲しいところだけど」

までもない。顔に書いてある」

「レイフにもよく言われたなあ。そんなに出てる?」

 からりと言った彼女に、ラグナは肩を竦めるばかりでそれ以上は答えず、くるりと踵を返した。

「朝飯の準備がもうできているそうだ。簡単なものだが、温かいうちにと主人が言っていたから、準備ができているのなら行こう」

「そっか。ありがとう」

 イェリンは急いで流したままだった髪を編み上げると、ラグナの背中を追った。


 食堂は昨夜ほどではないがそこそこの人で賑わっている。大戦が終わり、人の流れも戻ってきているらしい。とはいえ、昨日見たように西の大河へと続く道は荒れ果てているし、主街道以外はまだ安心して旅ができるような状態ではないのも事実だった。そこまで考えて、ふとイェリンはラグナの額に手を伸ばす。

「何だ?」

 あまり動じた様子もない青年の額はイェリンの手と同じくらい、というよりはむしろ彼女の手の方が温かいくらいだった。

「熱、下がったのね」

「昨日の川でののおかげかもな」

「炎蜂蜜飴のおかげかも?」

「まあ、確かに。あれは美味いな」

 口元が緩んだのを見ると、どうやら甘い物が好きなのは間違いないらしい。あといくつあったかと残りの包みを頭の中で数えていると、給仕がパンとスープを運んできた。ごろごろとした根菜がいくつも浮かんでいる白いスープからは湯気が立ち上っていてほのかに甘い匂いがしている。黄色味の強い芋は口に含むとほろほろと溶けて甘味が広がった。

「わあ、甘蔓芋のスープ。これ好きなんだよね」

「うちの村にはもう少し甘味の強いのもあるぞ。焼き芋にすると美味い」

「えー、いいなあ。落ち着いたら遊びにいっていい?」

「好きにすればいい。観光名所ってわけじゃないが、あんたも深淵あそこを訪れる羽目になるかもしれないしな」

 その言葉の真意を図りかねて、イェリンが探るようにじっと見つめると、ラグナは眉根を上げて口元を緩やかに上げて笑う。

「あんたも言っていただだろう。悩んで難しい顔をしていても仕方がない。なら、真実を掴むために、今はただ前に進むだけだ。必要とあれば、もう一度あそこに降りることだってするさ。あんたが一緒なら、無事かどうかはともかく何となく乗り越えられそうな気がするしな」

 ラグナの青い瞳ははどこか悪戯っぽい光を浮かべていて、だから頼りにされているのか、向こう見ずな性格を呆れられているのかはわからなかった。まあ半々なのだろう。

「そんなことになる前に、ちゃんとあのひとを捕まえて洗いざらい事情を吐かせられるといいんだけど」

 思わず漏れた本音に、ラグナがぷっと吹き出す。どこかのツボにでも入ったのか顔を背けて口元を押さえてくつくつと笑い続けている。

「そこまで笑う? だって、明らかに諸悪の根源って感じになっちゃってるじゃない」


 ラグナの命を救った理由も、イェリンに極彩色の炎を譲り渡した理由も何もかも語らぬまま二人をそれぞれ放り出した。魔法学術都市カラヴィスで二人が出会うことさえ、イクスは予想していた気もするが、それにしても、もう少し事情を細かに説明することだってできたはずだ。

 結局そうしなかったのは、あの炎を手中にすることにしか興味がなかったから。ラグナがそう解釈してしまうのもやむを得ないのかもしれないけれど。


「でも絶対違うから。銀貨五枚、賭けてもいいよ」

「……あんたのその前向きなところは嫌いじゃない」

「好きってこと?」

 軽い口調で返すと、ふとラグナが真顔になる。

「そうだと言ったら?」

「え?」

 底の見えない青い瞳が真っ直ぐにイェリンを射るように見つめる。言葉を失ったイェリンの前で、ラグナは椅子から立ち上がり、側に歩み寄ってくる。イェリンの顎をすくい上げるように大きな手が伸びてきて、無精髭も剃られた端正な顔が近づいてくる。

 少し伸びた暗赤色の前髪が触れ、息がかかり唇が触れるほど近づいた時、ふっとまたラグナが口の端を上げて笑った。

「男をからかうなら、もう少し脇を固めておいた方がいいぞ」

 イェリンの頬に唇が掠めるように触れて耳元で低くそう囁くと、席に戻り食事を再開する。視線が合っても片眉を上げて笑うばかりだから、先ほどの意趣返しにすぎないのだろう。

 そうわかってはいても、つい先ほど、間近に見えた強い眼差しのせいで熱くなった頬を両手で包み込みながら、イェリンは少しだけ今までの——そこそこ積み重ねた——軽率な発言を反省したのだった。



 朝食後、身支度を整えて宿を出ると、今日も空は穏やかに晴れ渡っていた。風も心なしか温まってきている気がする。南へ行けば、もっとはっきりと変化を感じられるだろうか。そんなことを考えながら、イェリンはラグナと並んで歩く。今日は顔色もよく、足取りもしっかりとしている。水浴びが効いたのかどうかはわからなかったが、少なくとも、師匠の屋敷に転がり込んできた時にあれほど憔悴していたのが信じられないほどには回復しているように見えた。

「本当に頑丈にできてるのねえ」

「それが取り柄だからな。病弱な薬師なんて務まらないだろう」

 そういう問題ではない気がするのだが、とりあえず軽率な発言は控えようと決意したばかりだったから、一応は口をつぐんでおく。ラグナがとなりでまたくつくつと笑う気配がしたが、別に気づまりでもないのでそのまま歩みを進めていった。


 そうしてたどり着いた川岸は、心地よい風が吹いて穏やかなものだった。どこからともなく小鳥のさえずる声も聞こえてくる。昨日の荒れ狂う不気味な気配が嘘のように。向こう岸へ渡るための橋も、古びてはいるが特に異常はなさそうだった。

「行くか」

「そうね」

 それでもそれなりに緊張しながら橋を渡る。半ばを過ぎたあたりで、川面に大きな影が見えて思わず足を止めたイェリンに、ラグナがああ、とこともなげに頷く。

「川蝶鮫だな。穏やかな性質だし、見た目はあんまり可愛いやつじゃないが、卵が美味いと評判だ」

「ああ、そういえば、お師匠さまの好物の一つだわ。捕まえて送ったら喜んでもらえるかしら」

「産卵期はもう少し先だから、捕獲しても卵はないぞ」

「そっかぁ、残念」

 好物の一つでも送りつけておけば、もう少し旅の助言でも返礼にもらえるかもという下心はきっと見透かされてしまうだろうから、あまり意味はないかもしれないけれど。ともあれと橋を無事に渡りきり、振り返るとオルヴィクはもうずいぶん遠くに見えた。ここから先は、イェリンにとっては未知の領域だ。ふと、胸の奥がざわりと騒いだ。


「……ラグナはこの先に行ったことがある?」

「いや。だが、地図は頭に入ってるぞ」

 川向こうの平原はすぐに途切れ、森が近づいていくる。鬱蒼と高い木々が連なるその森は、外から見ても暗く深そうだった。

「本当にこの中を進むの? 迂回して行った方がよくはない?」

「迷うような森じゃない。地図にも記載されているし、途中に村もあるようだから大丈夫だろう」

「本当に?」

 疑うのなら自分で地図を見ればいいだろうとラグナは片眉を上げたが、イェリンは首を横に振った。そうして森にもう一度向き直る。やはり、胸がどうにも騒ぐ。黙ったまま、森を見つめる彼女の顔をラグナが覗き込んでくる。

「何か気になるのか?」

「わからない……けど、は起きるかも」

「なら、引き返すか? この先森は川岸まで広がっている。迂回するならオルヴィクまで戻ってさらに北から進むより他ないが」

「まあ、そこまでじゃない、と思う」

 曖昧な彼女の言葉に、ラグナはしばし考え込むようだったが、背に負った荷物から長い何かを取り出し、腰に帯びる。

「……剣?」

「あまり得意じゃないから、しまっておいたんだが、まあ念の為、な」

 無闇に不安にさせてしまっただろうかと、ため息をついたイェリンの頭をラグナがぽんぽんと子供にするように撫でる。

「この旅は半ばあんたの勘が頼りだ。そのあんたが何かあるというなら、その予感には留意しておくべきだろう」

「そう、かな……?」

「行こう。あまりぐずぐずして、それこそ森の真ん中で野宿になるのは避けたい」


 イェリンは頷き、ラグナと共に森へと足を踏み入れた。途端、ざわざわと森が騒いだように感じた。

「え……?」

 ラグナが剣を抜き放ち身構える。同時に目の前に大きな影が現れた。風を切る低い音。ラグナがとっさにイェリンの腕を引いてくれていなかったら、もうそこにイェリンの首が転がっていたかもしれない。ぞっと背筋が冷えるほど鋭い爪を持ち、眼前に現れたのは、巨大な妖花だった。

 鞭のようにしなるつるの先に非常識な鋭い五本爪。中心には緑色の肌を持つ、美しい女性の上半身。表情が動かないことで、それが人を搦めとるために人を模しただけの魔物だと知れた。

「川の怪異の次は、花かよ」

 毒づいたラグナにまた勢いよく風を切って蔓が伸びてくる。ぎりぎり剣で払ったが、その爪は鋼さえも弾き返した。一旦退くか、とそう声を上げかけた時、彼らの前にまた別の影が滑り込んだ。

 また別の魔物かと身をこわばらせた二人の前で、ラグナより頭半分は高い長身の影は、彼らを一瞬だけ振り向いてニッと笑った。雑に括られた長い髪と、頬に大きな傷があるのがやけに印象に残る。


「代金は後で精算してもらうな」


 何を言う間もなかった。背中から大剣を引き抜いたその男は、妖花を一刀両断に斬り裂いた。

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