六 穏やかな夜

 ともあれとオルヴィクの街へ戻り、適当に見つけた食堂に入る。席に着くなり、ラグナは再び両手で頭を抱えた。故郷の近隣で起きた多くの犠牲が、彼を守るためだったと知らされれば誰しも穏やかではいられないだろう。


「いずれにしても、あなた一人の犠牲であの炎を抑えきれたとは思えないよ。あ、とりあえず麦酒エールでいい?」

 慰めにもならない言葉を口にしながら、イェリンはメニューを眺め、いくつかを注文する。まず初めに届けられたのは白い泡が美しい黄金色の液体が揺れるカップ、それからあぶって温められたパンとチーズだった。カップに口をつけると滑らかな泡のあとにしゅわしゅわと流れ込んでくる喉越しが心地よい。苦味とともにふわりと爽やかな香りが鼻腔に届いた。

柑橘皮オレンジピールかな。美味しい」

 満足げな彼女に、ラグナは何か言いかけたが、はあと大きなため息をひとつついて頬杖をつくと、彼もまたカップに口をつけた。ごくりと喉を鳴らして麦酒エールを飲み込み、それから顔を顰める。

「……苦い」

「もしかして、初めて?」

「うちの村では若いうちはあまり酒を飲む習慣がないからな。あんただってまだ十七だろう?」

「そうなんだ。うちは十五を過ぎたら薄めた葡萄ブドウしゅは普通に夕食に出るし、果実酒もよく飲むよ」


 食前酒らしき、別に運ばれてきた小さめの透明で美しい文様の刻まれたグラスに炭酸水を注ぎながら首を傾げると、ラグナはやれやれ、と何度目かのため息をついた。それを横目に、テーブルの上に置かれた銀の器から氷を一つ取り出して放り込む。泡が膨らんで溢れそうになって、慌ててグラスに口をつけた。しっとりとした甘さと香りが口の中に広がって、パンよりは、もう少し塩辛いものの方が合いそうだな、と思っているとちょうどよく給仕が薄切りにした塩漬け肉と、キノコの酢漬けを運んできた。パンに塩漬け肉とチーズ、ついでにキノコも載せればそれだけで十分に香り高い酒のさかなだ。

「あー美味しい! ところで炭酸水を冷やすと泡が溢れるのって魔法? 薬学?」

「薬学だろ。どっちでもいいが、成人するまではあまり飲まない方が望ましいのは知っていると思うが」

「体質にもよるんじゃない? 少なくとも、うちの村ではそれでどうこうっていうのはほとんどなかったし」

 もう一つのグラスに同じように氷と炭酸水を注ぎ、ラグナの前に差し出すと黙って口をつける。今度はわずかに見開かれた目ととともに、口元も緩んだから気に入ったらしい。満面の笑みを浮かべたイェリンに、ラグナもそれ以上若年層における飲酒についての議論はせず、肩を竦めて料理に手をつけ始めた。


 温かい料理と酒の効果か、ラグナの雰囲気も和らいできたところで、イェリンは黄色黍のスープを啜りながら、これからのことに話を向ける。

「で、これからどうするんだっけ?」

「まずは川を渡ってルウェスへ向かう。あの様子ではどうなることかと思ったが、あんたのおかげでひとまずは落ち着いたようだし、ここで渡っておかないと後々どうなるかもわからないからな」

 濁流と化していた川と、そこから現れた枯れ木のような手。人ではないものはこの世界には数多く存在するが、さりとてあからさまに害をなすものというのはあまり目にすることはない。大戦によって世界の理が乱れ、四大元素の精霊が乱れたせいだと、まことしやかに研究者が噂しているのを聞いたことはあったが、真実のほどはイェリンにはわからなかった。

「精霊って本当にいるの?」

「いるだろ。五氏族だってそもそも精霊の眷属けんぞくだし、あんたの師匠だってその身内だろう?」

「え、そうなの?」

 知らなかったのか、とラグナが呆れたように目を丸くする。確かに師匠は人ならざる魅力を湛えているし、作り出す魔法陣や薬も破格の効果を持っている。彼女の悪口ひとつ言おうものなら、その日から言った本人の姿が見えなくなる、というのもあながち根も葉もない噂でもないのはイェリンもよく知っていた。

 とはいえ、あれこれ理由を詮索せずに彼女を弟子に迎えた上に、世話をしてくれ、日々の食事も普通に共にすることも多かったから、人ではない、という実感は薄かった。


「確かレスティアラのおさの縁者じゃなかったか? ロイが世話になったのもその伝手だったと聞いた記憶がある」

「レスティアラ……あの、世界の天秤をつかさどるって言われてる?」

 地水火風、四大の元素とは別軸で存在する光と闇——あるいは善と悪。曖昧なそれらを司り、いずれにも傾き過ぎないように制御する、というそれはまるで自然の摂理そのもののような存在で、伝説じみているというのに、確かに北の果ての古都イェネスハイムに存在するのだという。

「『大戦』を終わらせたのは、その長の存在が大きかったらしいが」

「そんなに強い人なの?」

「さあな。だが、何百年か前にレスティアラの一族は大きな災厄にあってほとんど滅びたと聞いているが、まあそれこそ伝説じみていてわからん」

 あるいはロイなら知っているのかもしれないが、とラグナはまた物思いにふけるように視線を落とした。彼と彼の村、そして世界の情勢はあまりに深く絡み合っていて、世間話ひとつにしてもなかなかに気を遣う。兄の動向を聞いていいものか、イェリンが考え込んでいたところで、給仕がタイミングを見計らったかのように、食後のデザートを運んできた。

 硝子の器に盛られていたのは煮詰めた林檎に透明なゼリーが添えられたもの。普段は薬の投薬の補助くらいとしてしか使わないが、果汁と砂糖をたっぷりと含ませたそれは、冷んやりとしていて、酒で程よく暖まった体にはちょうどよかった。


 満面の笑顔を浮かべたイェリンに、ラグナもまた視線を上げて匙を口に運ぶ。その冷えた感触に驚いたのか、目を丸くして首を傾げた。

「こんなに冷えているのか」

「ここはカラヴィスに近いから、保冷技術も進んでいるみたい。さっきの炭酸もカラヴィスの製品で作ったものでしょ」

「……さすが都会だな」

「こういうのも初めて?」

「技術自体はなくはないが、こうして楽しむほどは普及していないな。のんびりした退屈な日々の繰り返しだ」

 それが、今となってはどれほど尊いものであったのか、などとは触れる必要もないことだ。森に囲まれた山奥の静かな村で、大地の精霊に縁を持つという彼らは、その他の人里から隔絶されるほどではないが、深く交わることもなく静かに暮らしてきた。

「だから、あのひとに惹かれてしまった?」

「な……っ」

 イェリンの言葉に、ラグナが口に含んでいた果実をふきだしそうになって、慌てて口元を押さえている。その顔が赤いのは酒のせいばかりだろうか。ここぞとばかりに酒盃を勧めながら、テーブルの向こう側からにじり寄るように身を乗り出す。

「私の住んでいたところもそりゃあもう退屈なところだったから。そこにあのひとが現れた。長い黒髪に、静かな灰色の瞳の、びっくりするくらい綺麗なひとでしょう?」

「……それは、まあ否定しないが」

「一目惚れ?」

「だから! どうしてそうなるんだ……⁉︎」

 慌てて声のトーンを落としたものの、その声は酒場の喧騒の中ではさほど目立ちはしなかった。ただ、ラグナは落ち着かなげにグラスを指先で弄んでいる。


 一人で怨嗟を鎮めようと深淵へと通い続けたラグナが、そこへの案内を望む旅人をどう思ったのか。イクス本人に積極的にたばかる意図があったのかはわからないが、少なくとも、カラヴィスからダレンアールに調査の人員が訪れることを知っていたのは確かだ。そうして出会ったラグナの誤認を正さず、大穴へと案内させた。

 故郷でイクスと出会ったイェリンは、彼がどれほど魅力的に映るかを知っている。おそらくは、自身でもそれを自覚しているのだろうとも。イェリンが抗しえた——彼自身に魅惑されずに済んだのは、きっと彼女の素性によるところが大きい。常人より遥かに魅了の性質を持つ彼女だからこそ、平然と対峙できたのだ。

 だから、ラグナが深く疑問を抱かず彼の望むままに深淵へと誘う手をとってしまったのも不可抗力ではあったのだろう。それでも、疑問が残るのは、おそらくは研究にしか興味がないはずのイクスが、全身全霊をかけてあの極彩色の炎を取り込み、ラグナを守ろうとしたように見えることだ。


 およそ自己犠牲とは縁遠いであろう彼が、そこまでして守ろうとする理由など、一つしかないではないか、とイェリンは思ってしまうのだ。

「……勘弁してくれ」

「どうして? あのひとは普通じゃないし、別に同性だからどうしても困るっていうこともないでしょう? あ、でもお兄さんも婚姻はまだなんだっけ? 後継がいないと困るとか?」

「あいつもまだ婚姻したという話は聞かないが……いやそうじゃなくて、どこまで飛躍すれば気が済むんだ。あんな物騒で危ない奴、どう考えても願い下げだ」


 瞬間、ちり、とイェリンの胸の奥で何かが騒いだ。同時に、ぱきり、と小さなひび割れが走る音が聞こえた気がしたけれど、それはごく小さかった。少なくともカラヴィスで起きたような崩壊の異変を起こすほどではない程度の。

「やだ……本気なの?」

「だから、何がだ⁉︎」

「失恋が炎のほころびの原因だったりして?」

「冗談も大概にしろ」

 あからさまに不機嫌な顔になったラグナに、胸元を押さえたまま、イェリンは素知らぬ顔で給仕に果実酒のおかわりを頼みながら、どうしたものか、とそれなりに真面目に考え始める。イェリンの心臓を核として封じられた炎は、今も少しずつ溶け出て彼女の糧となっている。だが、その術式は綻び始めている、と師匠は言っていた。その原因が、イクスにあるのはもうほぼ間違いないだろう。


 しばらくして運ばれてきた果実酒は、今度は不思議な青い色をしていた。まるで、ラグナの瞳のような透き通った色のそれに、胸がざわりと騒いだ。やはり、とイェリンはこちらを怪訝そうに見つめる青年の顔を見ながら、胸元にそっと手を当てて宥めるように軽く叩く。結局のところ、何が起きているのかはわからない。


 けれど、少なくともラグナを前にして、流し込まれた魔力——イクスの一部と言っていいそれが——がこれほどに騒ぐのは、あまり良くない予感がした。

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