三 破魔の炎
不快な悲鳴と轟音と共に
「信じられねえ」
呆然とした声ではっと我に返る。ラグナは川辺に座り込んだまま、左腕を抱えるようにして唖然とした顔でイェリンを見上げていた。慌てて駆け寄り、その腕を取る。そこには火傷はおろか、熱の痕跡さえもなかった。傍らを流れる濁流だったはずの川面は澄んで、何事もなかったかのようにきらきらと太陽の光を映して静かに流れている。
ラグナの腕は人らしい温もりがあるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、川に引き込まれ、濡れたはずの痕跡もないことだけが不自然と言えば不自然だった。
「乾いちゃった?」
「……のようだな」
「役に立つこともあるのねえ」
「この状況でそんな軽口が出るあたり、本当にとんでもねえな」
呆れたように笑うラグナの手を下ろそうとすると、逆に手首を掴まれて引き寄せられた。間近に迫った青い瞳に思わずどきりと心臓が高鳴る。だが、当の青年は興味深く探るような顔で、恋の熱情などかけらもなかった。そのままイェリンの手を開かせて仔細に眺める。
そこには何の変化もなかった。多種多様な薬草や薬品を扱っていたにしては綺麗なものだと師匠にもレイフにも言われたように、白くほっそりとした指先と柔らかな手のひら。あれだけの炎を扱いながら、火傷ひとつない。
ラグナはイェリンの手を撫でるように触れて
「宵闇花の精は人の精気を
何やら考え込む様子にイェリンは内心でため息をつく。どうやらこの人も同類のようだ、と。
イェリンの故郷の人々は異質な彼女を忌避したが、魔法学術都市カラヴィスではむしろ異端である方が興味を惹いたし歓迎される。精霊や獣人の血を引く者も多かったし、半妖精や影飛竜、蒼炎蜥蜴などの希少種が見つかろうものならお祭り騒ぎで我先にと保護しては、観察や研究に余念がない。かつて行われた非道な実験の数々への告発により、生体を使用した魔術や実験は基本的には禁じられていたし、希少種に関しては誰もが欲しがるから、危害を加えるような不届き者はほとんどいないのだけが幸いだったけれど。
「あなたも研究者なの?」
「いや、薬師を目指していた。なんでだ?」
「ああ、だから薬や魔術にも詳しいのね」
薬師はさまざまな薬草や薬品で人を癒すのが仕事だ。魔術自体は基本的には魔術師にしか使えないが、薬師は魔術師の調合した魔法薬を処方したり、魔法陣を調薬に使用したりもするからその境は曖昧だとも言われている。彼女の師匠の薬は、魔女の作る薬としてなおさらに重宝されることもあるようだった。
いずれにせよ、ラグナの所作はあまりにもカラヴィスでよく見た研究者のそれに似通っていて、だからこそ厄介ごとに巻き込まれているのだろう。
「人を疫病神みたいに……」
「そこまでは言わないけど、さっきもそうだけど、無闇やたらにあんな川に手を突っ込んだり、深い大穴の底に怪しい旅人とふらふら降りたり、わりと無茶する方だよね?」
ラグナがぐっと言葉に詰まる。身に覚えはあったのかもしれない。やれやれとため息をつきながら、イェリンもそろりと川面を覗き込み、恐る恐る指先を水に浸す。澄んだ流れはあくまで静かで、心地よい冷たさだった。イェリンは荷袋から透明な小瓶を取り出し、川の水を掬う。指先で摘んで振ると、小瓶の中の小石がしゃらしゃらと音を立てたが、水は澄んだままだった。
「それは?」
「水の試薬。飲めない水だと緑色に変色するのだけれど、大丈夫みたい。さっきの状態だったらどうなっていたかはわからないけれど」
「試してみたかったな」
真顔で言うラグナに、そういうところだ、と目線で伝えると、肩を竦めて笑う。根は陽気な青年なのかもしれなかった。
「あんたほどじゃない」
ラグナは片眉を上げてそう言ってから、膝をついて川を覗き込む。ゆっくりと、今度は慎重に手を差し入れたが、なんの異変も起こらなかった。それから目を閉じて何かに耳を澄ます。やがてゆっくりと開かれた瞳は、やはり少し
「何か、聴こえた?」
隣に座り込んだイェリンの問いに、ラグナはまた一度瞑目し、彼女の手をとった。大きな手は冷えていたけれど、そこからじんわりと熱が伝わってくる。
「以前にもあんなふうに炎を扱ったことがあるのか?」
「あんなふうに、というのは?」
「破魔の力、だ。本来あの炎は
本来そんなことはあるはずもないのに、とラグナはイェリンの手を握ったまま、彼女を真っ直ぐに見つめる。その瞳はどこか揺れているように見えた——まるで、今にも泣き出してしまいそうに。
「あなたが大穴の底で見たのは、ダレンアールの地割れで飲み込まれたという死者たち?」
ラグナがびくりと肩を震わせ、反射的に離れそうになった手を両手で包むようにして捕まえる。震える手を握り締め、真っ直ぐに視線を合わせる。責めたり苛んだりするつもりはない。けれど、真実を知っておかなければ、この先の不慮の事態に対処できないかもしれない。それだけは避けたかった。イェリン自身が誰よりも自身の中に封じられたものの危うさを自覚していたから。
「ラグナ、私はあのひとと出会って、あのひとの操る炎に惹かれてしまった。あれが恐ろしいものだとはわかっている。でも、それだけじゃない。あのひとは炎を抑えようとしていた。少なくともあの炎が人を焼き尽くさないよう制御しようとしていた」
「それは、自由にあれを操るためだろう! あいつは、あの大穴の底で死者たちの怨嗟が燃え上がるのを笑って見ていた。多くの死者の嘆きを
激昂し、振り払われようとした手を握り締め、真っ直ぐに見つめ続ける。ここで逃すわけにはいかない。ラグナの秘密はそのまま弱さに繋がってしまう。彼があの穴の底で何を見たのか。イクスが何をしたのか。そして、なぜ、彼は満身創痍でカラヴィスにたどり着いたのか。明らかにしないまま、旅を続けることはできない。
あの炎は世界中のあちこちで発生している。その根源がダレンアールの大穴にあったのだとしても、もう今はそこにはない。たとえきっかけが彼らがあの場所に降りたことだとしても、それはいずれ避けようのない事態だったはず。
だが、ラグナはイェリンの心の中を読んだように首を横に振った。
「俺は月に一度、あの大穴に『巡季の深眠薬』を投げ込み続けた」
「それってあの……季節巡りの眠りの薬? 四季折々の眠りを司る生花を使って作られる、死に近いほどの深い眠りを誘うっていう。異なる季節に咲いている花を手に入れるなんて……やっぱり、あなたは魔術師なの?」
「薬草園のいくつかの区画で温度調整をしたり、日照時間を調整したりする程度だ。天候を操るほどの大掛かりなものではないから、適切な魔法陣とほんのわずかな魔力で事足りた」
「その魔法陣を描いたのもあなた? どうやって? 大掛かりじゃないって言ったって、大地を温め、植物に差す光を制御するなんて、普通の人にできることじゃないわ」
矢継ぎ早に問いかけた彼女に、ラグナはぐっと眉根を寄せた。握り締めた拳に力が入る。苦悩の根源はそこなのだろう。
「俺は
常人には聞こえない音や声を聴くことのできる者は世の中には意外と多い。レイフもその一人だ。だが、彼らが聴いている——と感じている——ものは人それぞれではあるらしい。精霊の呼び声であることもあれば、妖精の悪戯な声であることもあり、また大地や風といった自然そのものの意思だともいう。
「俺にとっては声はあたりまえにそこにあるものだった。だから、あの大穴から不穏な気配を感じるようになってから、深眠薬が彼らを慰め、弔いとなるのだとそう聴いて信じていた。時合わせの魔法陣も薬の配合も、全て彼らから聴いた」
「そんなにはっきりと意思を伝えてくるだなんて……」
おかしいとは思わなかったのか、と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。彼は大地の精霊の
大穴の底に
「あなたのせいじゃない」
「そう言い切れるか? 俺が手を出さなければ、死者の無念は時と共に薄れ消えていったのかもしれない。
「そうだとしても、それはあなたのせいじゃない。元はと言えば、あの大穴を作り出した人のせいでしょう?」
イェリンは握っていた手を離し、ラグナの頭を自分の胸に引き寄せる。なぜ彼が満身創痍でカラヴィスにたどり着いたのか、今ならもうわかる気がした。きっと彼は死のうとしたのだ。全ては自分が引き起こしたことだと思い、絶望して。
「あの炎に、身を投げたのね?」
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