四 怨嗟の根源(ラグナ)

 いつもと変わらない、穏やかな光が射していた春先のあの日。比喩でなく地の底から響いてきた轟音とともに、村の半分が大きな亀裂に呑み込まれた。突如として現れたその穴はあまりに巨大で深く、現実のものとは到底思えなかった。


 ラグナは、兄であるロイの先見視さきみによって共に逃れた人々と、高台からその悲劇を目の当たりにした。初めての予知に自信の持てない兄と、長時間何も起きないことに倦んで村へと戻った人々はかなりの数に上っていた。それはすなわちそれだけの人々が大穴に呑まれたということだ。底も見えぬ深淵に落ちた人々が無事で済むはずがないことは、彼にさえ容易に想像がついた。


 けれど、傍らで呆然と膝をついた兄と、枯れ木のような両手で顔を覆った村一番の古老が何を思ったのか。彼がそこに思い至るのは、もっとずっと後になってからだった。


 誰もが沈痛な面持ちで呆然と過ごしていたその夜、ロイは古老と父と何やら深刻な顔で話をしていた。その後は怖い顔で空を睨みつけるばかりで、食事もろくに摂らなかった。

 そうして、ロイが彼が旅支度をして村を出て行ったのは、数日後のことだった。父も古老も一切詳細を語ろうとはしなかった。ただ、難しい顔をしたままの父と、無事を祈るより他ないと笑った古老の顔は、どちらもいつになくくたびれたように寂しげだったのだけがひどく印象に残っていた。


 半壊した村で、父を含めた大人たちは復旧に向けて忙しく働いており、他の子供たちは怯えて家からほとんど出てこない。母は既に亡く、一番近しい遊び相手でもあった兄も去ってしまった彼にとって、一人で森で過ごす時間が増えたのはごく自然なことだった。やがて、一人で過ごしている時に、何かの声を聞くようになった。

 森を抜ける風に紛れるように微かなのに、聞くたびに脳裏を引っ掻くような頭痛に苛まれる。その声は、あの大穴の方角から届いていた。


 ——絶対に、あの大穴に一人で近づいてはいけない。


 村の半分を呑み込んだ大穴について、大人たちはそう厳命していた。幾人かがその場所へ一人で向かい、そして二度と戻ってこなかったからだ。原因はわからない。けれど、行方知れずになった全員があの大穴に向かったことだけは確かだった。ならば近づかなければいいはずだが、それでも家族や友人がそこに飲み込まれた人々は、折りに触れてせめて花だけでもと手向けに訪れた。訪れるのが一人でなければ、特に異変は起こらない。

 だから、ラグナも最初は他の大人と連れ立って行っていた。初めは花を手向けに、やがて、あの声に惹かれるようにして。


 自分がなぜそこへ足を向けるのか、初めは理解していなかった。ただ、何となく何かに呼ばれているような気がしていた。実際に呼ばれていると気づいたのはロイが旅立ってから——大穴が開いてからおよそ一月ひとつきが過ぎた頃だった。


 ——哀しい、寂しい。


 少なくとも、彼に語りかけてきた声に害意は感じられなかった。ただ、切々と嘆くばかりだった。


「どうしたらいい?」


 ついにそう問かけた彼に、声はとむらいとして安らかに眠れるよう、色とりどりの花から作られるとある薬を捧げてくれと頼んだ。それほど明瞭な返答は珍しいことだったが、頭痛に苛まれ、日々訴えられる嘆きに心を痛めていた彼は、その声に迷わず従った。

 家の裏の薬草園の一画を父から借り受け、そこで必要な薬草を育てた。父は怪訝な顔をしながらも、一人放って置かれる子の手慰みかとあまり注意を払いはしなかった。

 誰もが忙しくラグナの動向に気づかなかった。彼が大穴の淵へ行き、作り上げた薬の小瓶を投げ入れる様子を見る者もなかった。たった一人で、幾度も、繰り返し。まだ幼い少年が深淵に呑み込まれることなく、劇薬を投げ入れ続けたことを、不自然なほどに誰も気づかなかった。兄も不在のまま、そんな日々が数年続いた。


「そなたは選ばれたのだな」

 そうしてあの日、彼を深淵の底へといざなった美貌の旅人は、陶然とした表情でそう言った。闇の底でさえ艶やかな長い黒い髪、そして、日の光の下では茫洋として見えた灰色の瞳は、今はひどく楽しげに煌めいていた。遥か遠く断崖の上から差し込むわずかな光を映す灰色は、不思議とさまざまな色を浮かべて闇の底に蠢くを見つめていた。


「実に興味深い。骨一つ残さず融解した上でこごっているのは大地の精霊の血を引くゆえか、あるいはこの大穴を開けた魔力ちからによるものか。いずれにせよ、この地を襲ったのは狙ってのことというよりは暴発に近いはず。ならばその犠牲となったものの無念はさぞ深かろう。それを利用する者がおったのか、それとも単純に彼らの無念が破壊の力と結びついたものか……推測するならば後者か」

「何を言っているんだ……?」

 呆然とそう呟いたラグナに、旅人はようやく真っ直ぐ彼の方を見て、哀れむように首を傾げた。

「そなたは常人の聞けぬこえを聴く。ゆえに狙われたのだろう。この大穴が開いて四年だったか? その間、彼らのえんをこの地に留め、吹き出た魔力と混合し育てるために『巡季の深眠薬シズレプシマ』をこの地に捧げ続けさせられていた。そなたに悪意はなかったろう。だが、あの薬は全てをそこに留める性質がある。生者も死者も等しく深い眠りにつき、逃れられぬ」


 見よ、と旅人は美しい白い指先でうごめく闇を指し示した。その声に応えるように、闇がゆっくりと蛇のように鎌首をもたげる。甘い花の香りが辺りを包み込む。途端、急激に眠気が彼を襲った。ぐらりと傾いだラグナの体を思いのほか力強い腕が抱き留めた。

「しっかりせよ。ここで眠ってはそなたもあれらの仲間入りだぞ」

「あれら……仲間……入り?」

「そうだ。あれらの意識は嘆きと悲しみで満ちている。生きとし生けるもの全てを恨み憎み、その上妬んでいる。そなたのように若く美しい者など格好の餌食だ」

「……あんたは?」

「私? ふむ、そういえばそなたにとってもこの顔は好ましいものであったか」

 どこかのんきにそう言う旅人とラグナの目の前で闇がぞろりと蠢いた。同時に、彼は確かに嘆き、彼を取り込もうとする聲を聞いたのだ。


 ——どうして自分たちだけが。無事に済んだ者もいたというのに。


「それは、あんたたちがロイの警告に従わなかったから——」

 さほど深い意図があったわけではなかった。けれど、ラグナは苦悩する兄を間近に見ていた。そして、悲劇未来を幻視しながら救えなかったことを深く悔いていた。だが、それがロイの罪であったはずがない。

「あんたたちが村長むらおさや長老の話も聞かずに村に戻ったりしたからじゃないか!」

「よせ、理屈の通じる相手ではないぞ」

「だって——」

 言いかけた彼の前で、闇が膨れ上がった。


 ——非難するのか。ただ無辜むこでありながら闇に呑まれた我らを?


「それは……」


 ——我らを眠らせ、この深淵の底に留め置いたそなたが!


「違う、俺は——!」


 否定の言葉の先を続けられず、ラグナは口をつぐんだ。彼が投げ込み続けた薬はそれが慰めになると、そう語ったあの声に従って作り上げたもの。その効能まで把握していたわけではなかった。それが、傍らの旅人の語った通り、生者も死者も眠らせ停滞とどめさせるものだったのだとしたら。


 安らかに大地へと還るはずの彼らを繋ぎ止め、このような異質な存在に変えてしまったのは確かに自分かれの罪なのだ。


 立ち尽くす彼の前で、闇がさらに膨れ上がる。見上げるほどに高く伸び上がった闇は、花の香りを振り撒きながら、彼を包み込むように広がって降りてくる。頭の芯が痺れるような、深く鼻腔に入り込むその匂いに意識が溶けていく。そうして闇が彼を飲み込もうとした刹那。

「ふむ、いたいけな若人を罪人に仕立て上げ、非難するとはあまり感心せぬの」

 穏やかな声は、けれど今は底冷えするような響きを宿していた。ここに辿り着くまでに幾度か垣間見た、秀麗な顔に浮かぶ酷薄な気配。

 ラグナを抱き寄せたまま、旅人は闇に向かって微笑みかけた。そうして、白くほっそりとした指先がひたりとラグナを包み込もうとしていた闇に据えられる。

「大地の精霊の眷属の末裔すえ。ならばその本質は森や木々に連なる。とは相性が良かろうな。ぬしらのその身を変質させた根源がいずれの氏族の愚行によるものかは知らぬが、操りきれず暴発する程度のもの。その上、かような若人を詰り取り込もうとは、魔の風上にもおけぬ」

 くつくつと笑う旅人の指先でぼうっと真紅の光が浮かぶ。


 ——無限の炎……そなた一体……⁉︎


「相手も知らずに喧嘩を売るとは愚の極み。単なる見物のつもりであったが、どうやら何がしかの成果は得られそうじゃの」

 不穏に笑った旅人は、すうと一つ息を吸い込むと、静かに名乗りを上げた。

「我が名はイクス・アルディオス。我らが受け継ぎし炎が、大地の闇を苗床に、どれほど燃え上がるか見せてもらおう」

 指先から放たれた炎は、けれどそのまま静かに闇に吸い込まれる。何の痛手もなかったのかとラグナが眉根を寄せたその時、彼らを包み込むように立ち上がっていたその闇が、ぱたりと地面に沈んだ。水たまりのように広がった闇は、やがてごぽごぽ、ぐるぐると泡立つように蠢く。ラグナは思わず額を抑えた。ぎりぎりと頭を締め付けるような頭痛が彼を苛む。闇が、その身のうちに捩じ込まれた炎によって苦しみ喘ぐこえと共に。

 やがて、蠢いていた闇がぴたりとその動きを止めた。何が、と彼が声を上げる間もなく、目の前でゆらりと淡い光が浮かび上がる。初めは小さく、やがてそれは中心から殻を突き破るようにして、鮮やかに燃え広がった。

 赤、青、紫、黄色に白。様々に色を変え、地面に広がっていた闇を呑み込んだ炎はさらに激しく燃え上がる。同時に、彼はその炎が怨嗟の声を上げるのを聞いた。


 ——苦しい。辛い。痛い。どうして、自分たちがこんな目に。平然と生きる者たちがいるというのに。自分たちをこんな異形へと変えた者たちがのうのうと存在しているというのに!


「素晴らしい。これほど勢いよく燃え上がりながら、燃え尽きぬ。よどみ降り積もった怨嗟をかてに、破壊の衝動が無限の炎を生み出す。生きとし生けるものへの羨望と憎悪が尽きぬ限り永遠に燃え続けるか」

「そんな……彼らは、俺たちの同胞だったはずだろう⁉︎」

「そうだ。だからこそ羨望もまた強い。村の半分を飲み込んだあの亀裂はダレンアールの者たちの罪科つみとがではない。だが、先見視の導きに従わず、己の意思で深淵の開く場所へと戻った者たちのみが犠牲となった。に巻き込まれた、その悔恨はさぞかし深かろう。やり場のない無念さほど、昇華しきれぬものはない。このままではこの穴を飛び出して村とそこに在る全てを焼き尽くすであろうか」

「何とかならないのか……⁉︎」

 肩を掴んでそう叫んだ彼に、旅人——イクスは顎を撫でながら、不思議そうに首を傾げた。

「何とかと言うてもな。まあ気が済めばそのうち消えるであろうよ。世界を焼き尽くすほどの力はないゆえに。せいぜいが百か二百、村一つ滅ぼせば気が済む程度と見るが」

「気が済む……というのは、彼らの憎悪が——果たされればいいってことか?」

「それも一つの解よの」


 平然と頷く旅人——魔術師を前に、ラグナは燃え広がる極彩色の炎を見つめる。音もなく静かに、けれど確実に勢いを増していく炎は、意志を持つかのようにゆらゆらとゆらめいている。隙あらば彼を焼き尽くさんとするその意志は、彼の耳に確かに届いていた。


「恐れる必要はない。共にあればそなた一人を守るくらいはたやすい」

「他の村人は……?」

「そなた自身で言ったであろう。この炎はにえを得ねば消えぬ。下手に鎮火しようとすれば、逆に手がつけられなくなるおそれもあるしの。適当に燃やさせておくのが無難じゃの」

「贄……」


 生きとし生けるものを憎み恨む怨嗟の炎。だが、彼らは、確かにラグナを識別した。『この深淵の底に留め置いた者』として。彼らの苦痛と悲劇を招いた元凶が自分だというのならば、できることは一つだけ。それがあがないとなるのならば。


 自分を包み込んでいた腕を振り払い、一歩を踏み出す。踏みしめた闇の端から極彩色の炎が吹き上がった。

「何を……⁉︎」

 その時、それまで穏やかな、あるいは冷徹な響きしか宿さなかったその声に初めて驚きと焦りが滲む。その声で、不思議と覚悟が決まった。


「これは俺のしでかしたこと。これで償いきれるかはわからない。もし、あんたが無事にここを抜け出られたのなら、村人たちに謝っておいてくれ」

「愚かな。ラグナよ、審判の日ラグナレクにはまだ早いぞ⁉︎」


 振り返った彼の顔を見て、イクスがさらに目を見開いた。そうして彼はようやく自分が笑っていることを自覚した。その秀麗な顔に浮かぶ、確かに切迫した焦燥を目にして。彼の方に手を伸ばす美貌の魔術師のその表情が、炎よりも鮮やかに彼の目に焼きついた。

 そうしてラグナは自覚したのだ。なぜ、あの旅人の手を取ってしまったのか。どうして自分がをしたのか。


 止めようと伸ばされた手と、冷徹さに困惑の混じる美しい眼差しに囚われる前に、炎へと身を投げる。同時に悲痛な叫び声が聞こえたような気もしたが、その詳細を知ることなく、彼の視界も意識も極彩色の炎に呑まれてしまった。

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