二 大河

 北へ続く街道はそれなりに人通りも多い。オルヴィクまでは幸い乗合馬車――という名の荷馬車――を見つけられたので、そのまま揺られていくことになった。徒歩よりは遥かに早いし、カラヴィスから北の果ての古都、イェネスハイムへと続くこの道は治安も悪くない。乗合馬車の御者と乗客が野盗に早変わり、という事態はほとんどないと聞いていた。


 ほろに包まれた荷台に揺られているうちに、うとうととしていたが、目を開けるとラグナもすぐ隣で目を閉じていた。本人は傷はほぼ癒えたとは言っていたが、師匠の言葉を思い出せばそう安易に信じることもできない。そっと額に手を伸ばすと、触れる直前で青い真っ直ぐな眼差しがイェリンを捉えた。

 わずかにかげりを帯びたその瞳に怯みながらも、そのまま額に触れる。


「やっぱり、少し熱が出ていますね。オルヴィクへ着いたら一泊しましょう」

「そんなにのんびりしてもいられないだろう。あいつを野放しにしておくわけにはいかない。あと、そんなにかしこまらなくていい。年もそんなに違わないだろう?」

「私は十七ですけど、あなたは?」

「十八だ」

 思っていた以上に若い。思いが顔に出たのか、ラグナは口の端を上げて苦笑した。所作も雰囲気も落ち着いているから、言われ慣れているのかもしれない。

「若者らしくないとはよく言われたな。兄貴が無茶をする分、俺がしっかりしないとと思っていただけなんだが」

 軽い口調だが含まれる響きは柔らかい。仲の良い兄弟なのかもしれない。何やら訳ありではあるようだったが、一人っ子であまり家族のそういったやりとりを経験していないイェリンにとっては羨ましい気もした。ともあれ、と話を続ける。

「一日遅れたくらいで何かが大きく変わることはないでしょう?」

 イェリンの言葉に、ラグナはわずかに目を見開いた。それと共に翳りが薄くなる。

「私がカラヴィスにたどり着いてからもうだいぶ経ってる。何かが起きるなら、もうとっくに起きてしまってるわ」

「エルムスタやセレスべルグのようにか」

「どちらも人的被害はごく少なかったと聞いたわ。何らかの綻びが発生しているとしても、それだけ大きな炎が放出されたのであれば、しばらくは猶予があるのでは?」


 長尾羽の青い鳥が運んできた報せに重ね、師匠がさらに問い合わせた結果、どちらの街も建物や家畜などはほぼ跡形もなく焼き尽くされたものの、そこに住む人々はほとんどが無事だった。わずかに家財や家畜を惜しみ連れ戻そうと燃え盛る家屋へ戻った数人が帰らぬ人となったが、それ以外は近隣の湖や丘の上まで避難して無事であったのだという。


「炎の出どころは、結局わかっていないんだったか」

「ええ、いずれも街外れから炎が押し寄せた、という証言はあったみたいだけれど詳しいことは何も。住人が避難した後、街を焼き尽くして唐突に消えたと」

「妙だな……」

 顎を撫でながらラグナが首を傾げる。ラグナの故郷、ダレンアールでは極彩色の炎は彼の村を焼き尽くし、さらには麓のクルムをも焼き尽くした。その後、三日三晩燃え続けた炎は周囲の広範な森さえも焼き尽くしてからようやく消えたと記録されている。

 詳細な記録が残っているのは、当時、ダレンアールに開いた大穴を調査するべくカラヴィスから研究者が派遣されていたからだ。イクスはその調査員に先んじてダレンアールを訪れ、大穴の底でラグナと共にを見た。

「あなたは……あなたたちはその穴の底で何を見たの?」

「……今は、話したくない」

「それが、あなたがあのひとを追う理由だから?」

 真っ直ぐに見つめてそう尋ねると、ラグナの瞳の翳りが増す。無意識なのか前髪をぎゅっと掴んで苦悩するように眉根を寄せて歯を食いしばる。その手が、微かに震えているのに気づいて、イェリンは一つため息をつくと、荷袋から小さな小袋を一つ取り出した。中には紙包がいくつか。その一つを開いて、ラグナの前に差し出す。

「そんなに思い詰めると傷にさわるよ」

 包み紙の中には琥珀色の丸いものが五つ。一つをつまみ、ラグナの空いた口に放り込んだ。とろりとしたその色は、触れれば溶け出してしまいそうだが、実はひんやりと氷のような冷気を放っている。

「これは……?」

「暖気を取るための炎蜂蜜飴。でも、私が作ると何度やっても冷気がこもってしまうの。もういっそこれで売り出そうかと思っていたんだけど、どうかな?」

「……熱冷ましにはちょうど良さそうだ」

「よかった。前にレイフに渡した時は、体が冷えすぎて三日三晩寝込んじゃって」

 自身で組んだ術式は、ほとんどがイェリン自身には効能を発揮しない。それが彼女の中に封じられた炎のせいなのか、あるいは宵闇花の精としての特異体質なのかはわからなかったが、魔術師の弟子としてはかなり致命的な欠点でもあった。

「危なっかしくて仕方がないな」

「そうなの。付き合ってくれるのもレイフくらいだし」

「……苦労するな」

「本当にねえ」

 何やらラグナが黙り込んだが、イェリンはただ首を傾げて自分でも飴玉を一つ口に含む。舌に少しぴりりと刺激のある甘さが口の中に広がって、疲れた体に染み入るようだった。


 ラグナは話し疲れたのか、あるいは飴玉の効能なのか、目を閉じるとまた寝入ってしまった。数刻後、オルヴィクに着いた頃には、少し顔色も良くなっていたから、本当に熱冷ましとしての効能はあったらしい。

 御者に別れを告げて、大門をくぐり街へと入る。カラヴィスとは違ってイェリンの背丈の二倍は優にありそうな高い外壁に囲まれている。オルヴィクはこの街道沿いで最も大きな街の一つだった。

「ずいぶん高い外壁……」

「元々は戦への備えだったそうだがな。カラヴィスのように魔術師がわんさといるわけでもないし」

「それだけ治安が悪かったってこと?」

「人が集まる大きな都市ではどこもそうだったらしいな。俺も田舎の出だからあまり詳しいことは知らないが」

「うちも山奥だったから、『大戦』のこともよく知らないのよね」


 かつて、世界を巻き込んだ人と人でない者たちと間で起きた大きな争い。当初は魔力を持つ精霊たちや魔術師たちが圧倒的優位に経っていたらしいが、人間たちは銃火器を得てそれに抗した。互いに争いのために魔術を、武器を進化させたことで、止めるものとてない戦は泥沼化し、川や海の水は腐り大地は枯れ、風はやまいを運ぶようになった。このままではいずれ世界が滅んでしまうと危機感を抱いた精霊の長と先見視さきみによって、人と人でないものたちの間には講和条約が結ばれ、恒久の平和が誓われたというのだが。


「何でそんな戦なんてしてたのかな。水が飲めなくなれば自分たちだって困るし、大地が枯れてしまえば食べるものにだって苦労するのに」

「愚か者はどこにだっている。誰だって心に闇を棲まわせているからな。いつだってその割を食うのは無関係な者たちだ」

「あなたの村のように?」

「そうだ」


 ラグナの故郷ダレンアールはある日突然開いた巨大な亀裂に村の半分が呑み込まれたのだという。あの極彩色の炎が生まれたのは、その大穴の底。ならばあの怨嗟は——。


「話は後だ、まずは街の西を抜けて大河の様子を見に行く。いずれにしても今日中に次の街へ着くのは難しそうだが、状況だけでも知っておきたい」

 街の人々に話を聞くよりも先に現状をその目で確かめたいらしい。せっかちというよりは好奇心が旺盛なタイプなのかもしれない。イェリンはその顔に疲れは見えてもそれ以外の不調がなさそうなのを見てとって頷いた。


 街中は活気に満ちていたが、西へ抜けると急に人通りは絶え、静かになった。さらに西側へ続く道は北の街道に比べればささやかで、人通りが絶えてしまえば失われてしまいそうだった。

「これだけ人通りが少ないということは、この先も難しいかもしれないな」

「まあ、でもとりあえず行くだけいってみましょう。それほど遠くはないんでしょう?」

「ああ」

 頷いたラグナに従って、イェリンも歩き出す。ところどころ石畳が残っているところもあったが、補修されなくなってからずいぶん長い時間が経っているように見えた。頼りない道を進んでいくと、森に入る。ラグナは少し迷う様子を見せたが、目を閉じて耳を澄ませると、今度はもう少し早足で歩き出す。その後を追いながら、イェリンは早足のせいばかりでなく、鼓動が早くなるのを感じていた。


「あれだ」


 森の切れ目でラグナが指差した先の光景に、イェリンは思わず息を呑んだ。およそ大人の背丈の三倍はありそうな川幅の大河。勢いよく流れているというのにその水は濁り澱んでいる。

「そんな……」

 豪雨の後であれば川が濁ることは故郷でもあった。それでもここ数日雨らしい雨ひとつ降っていない晴天下、これほどの大きな流れが濁るなど。

 立ちすくんだイェリンをよそに、ラグナはゆっくりと河岸に歩み寄る。膝をつき、川に手を差し入れようとしたその時、流れが急に黒々とした渦巻きを形作った。

「ラグナ!」

 イェリンが叫ぶのと、ラグナが慌てて手を引こうとしたのはほとんど同時だった。川面の渦巻から黒い枯れ木のようなもの——手が現れ、ラグナの腕を掴み、引き込んだ。

「ラグナ‼︎」

 駆け寄って反対側の腕を掴む。ラグナは膝をついて何とか川面から身を引こうとするが、がっちりと彼の腕を掴んだ手は恐ろしいほどの力で彼を引き込もうとする。

「っ……!」

 痛みにラグナが顔を顰める。このまま無理に引き止めれば腕を引きちぎられてしまいそうだった。枯れ木のような手は、今は肘ほどまでが川面から露出しているが、その先は澱み渦巻いているせいで何が潜んでいるのかを見極めることはできない——だが。


 イェリンは目を閉じ、胸元に手を当てる。

 魔物には、魔を以って。


 握りしめた胸元に炎が現れる。途端、ラグナが静止の声を上げたがイェリンは構わず炎を引き出すと、握りしめたそれをラグナを引き込もうとする手に向けて放った。

 ごう、という凄まじい音と主に、耳をつんざくような不快な叫び声が川の中から響く。この世の全てを呪うような、悲痛で憎悪に満ちた怨嗟。


 それが、彼女の中に眠るものと、本質は同じだと気づいてずきりと心臓が痛んだが、構わず炎に意識を集中する。あの時できたのなら、今もできるはず。自身に封じられていた炎の流れを誘導し、媒介して怨嗟を取り込み焼き尽くす。


 小さかった炎がぶわりと大きく燃え上がり、断末魔のような叫び声と共に一気に弾けた。

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