五 鎮めの呪歌

 あの旅人から譲り渡された極彩色の炎。イェリンの心臓を核としてこごり封じられたはずのそれが唐突にひび割れた。割れた欠片かけらは瞬時に溶け、さらには砕けた断面から膨大な魔力が溢れ出す。


「——ッ、だめ……‼︎」


 イェリンはその莫大ばくだいな力のほんりゅうに圧倒されそうになりながらも、胸元で拳を握りぐっと歯を食いしばった。その炎の本質が何であるかをイェリンは知らない。けれど、彼女の中に留められた時点でその本質は明らかに変質している。それが溢れ出せば、どんな形で顕現するか未知数であったが、何しろより悪い結果をもたらすのは確実な予感があったのだ。


 だが、陽炎のごとくゆらめく色を失った炎は妖しく美しく彼女を包み込み、ごと焼き尽くそうとする。目を閉じてさえわかるほどの視界を白焔はくえん。熱は感じないのに、気を抜けば瞬時に周囲のありとあらゆるものを滅ぼしてしまいそうな激しさと、甘く広がる破壊への陶酔と愉悦。

 違う、と必死に抵抗する。自分はそんなことは望んでいない。託されたこれを解き放てば、彼の期待を裏切ることになる。それがたとえ利用されただけだとしても、ここで何もかも終わらせることはできない。


 彼女は、それほどに恋焦がれているのだから。


「この莫迦ばか! ぼーっとしてないで抑え込め。いつもの下手くそな呪歌ストラでもなんでもいいからそれを鎮めろ!」

 混乱の中、突然響いた涼やかな声でイェリンの意識こころが急激に引き戻される。窓から飛び込んできたのは短い金髪の小柄な影。その聞き慣れた罵倒と続く不可思議な音の連なりは、イェリンの全身を苛む苦痛を和らげ、彼女の心臓のを整える。同時に低く歌うような声と温かな指先が彼女の額に触れて、ようやくそれが鎮めと癒しの歌だと気づいた。

「そう、そのまま。ゆっくりと息をして」

 急速に還元していく魔力の流れに息を詰まらせながらも、イェリンが見つめた先にあったのは、見たこともないほど真剣なレイフと師匠の顔だった。彼女の視線を受けて、二人は静かに頷き、レイフはさらに歌を続ける。嵐によって波立つ湖を凍てつく風で包み込むように、あるいは折れんばかりに揺れ動く森の木々を清冽な雨で鎮めるように。未だかつて経験したことのない苛烈な魔力に、決して屈さないしなやかな強さで。


 額に触れた黒曜石オブシディアンの輝きと、常と変わらぬ穏やかな声、レイフの癒しの歌と共に、奔流に飲まれそうだったイェリンの心をぎりぎりで支えてくれる。身体の内側で燃え盛る炎をゆっくりとそのまま循環させ、心臓の位置で留めて流し込む。過剰分は、緑と黒の流れに導かれるままにひび割れを補修して閉じ込めていく。

 心臓を突き刺すような痛みがイェリンをさいなむ。拳を握りしめ、ぎりぎりで声を上げずにそれにも耐えた。吐き出す呼吸からさえ、炎が溢れ出してしまいそうな気がして。


 師匠の指先から流れ込む森の魔力とレイフの歌声、そしてイェリンの中に込められていたの魔力のざん。歯を食いしばり、荒れ狂う炎を全てをあるべき場所へ——彼女の心臓へと押し戻し、再び結晶化させていく。

 やがて、痛みも和らぎ、ゆらめいていた白い炎の気配も消えた瞬間、緊張が解けると同時に最後の気力も失ってぐらりと倒れたイェリンを支えたのは、寝台の上の青年だった。

「大丈夫か?」

 思いの外、しっかりとした腕に支えられ、慌てて身を起こそうとしたが体は言うことを聞いてくれなかった。師匠は含み笑いながら、イェリンをラグナの胸に頭を預けるようにして寝台に座らせた。

「そのまま少し温めてもらいなさい。大丈夫よ、彼は紳士のようだから」

「ふざけていないで、ちゃんと手当てしてやったらどうなんだ」

 少し離れた場所から聞こえたレイフの声は怒気をはらんでいた。少年のいつにない厳しい表情と、彼女の師匠に向けるにはあまりに不穏な物言いに、イェリンは慌てて身を起こそうとしたが、やはり体がうまく動かない。焦る思考とは裏腹に、ラグナに触れている場所から伝わってくる温もりは確かに心地よかった。

「ふざけてなんていないわ。その子が語っていた通り宵闇花よいやみばなの性質を持つのなら、人の温もりや精気が何よりの薬だもの。彼は精霊に愛されているから、多少分け与えても平気なはず」

 病み上がりでもね、と艶やかに笑んだ師匠は宥めるようにするりとレイフの頬を撫でると寝台に向き直り、イェリンとラグナをまとめて暖かな掛布で包み込んだ。先日イェリンが織り上げた保温の印が縫い込まれたものだ。あいにくと、せいぜいが人肌程度の効能しか発現しないものではあったけれど。


「なっ、そんなくっついて……!」

「言ったでしょう、彼は紳士だし、こんなことでは動じないから大丈夫よ。ねえ?」

 何やら慌てた様子のレイフに、師匠はいつも通りの艶やかな声でそう言うと、意味ありげな眼差しをラグナに向けた。青年は寝台に身をもたせかけると、そのままイェリンの肩を抱いて静かに頷いた。

「冷え方が尋常じゃない。せっかくのに何かあっても困るからな」

 俺で役に立つのなら、とあまりこだわりはない様子だった。レイフは不満そうだったが、深いため息をつくと、立ち上がった師匠と入れ替わりに椅子に腰掛ける。

「……大丈夫なのか?」

 探るような、それでも確かに気遣いの滲む声にイェリンは胸の奥が暖かくなるのを感じた。いつも皮肉ばかりだが、本質的には親切な性質であることはよく知っていたので。

「何とか大丈夫みたい。ありがとう、レイフがあんなに歌が上手だなんて知らなかった」

「あれくらい普通だろ。それにしたっていったい何があったっていうんだ? 不気味なくらい静まりかえってるってのに、めちゃくちゃ不穏な音はするわ、お前は燃えてるわ、妙な男はいるわ」

「えっと……それは……」

 矢継ぎ早な問いかけに、どう説明したものかとちらりと見上げたが、ラグナは口をつぐんだまま肩をすくめるばかり。


 師匠はといえば、相変わらずの艶やかな笑みを浮かべたまま、サイドボードの引き出しから若草色の紙を取り出して何かを書きつけている。そのまま窓際に歩み寄って優雅に指を振りながらいくつかの音の連なりを唇に乗せた。決して大きくはないその声に、けれどすぐに応えるように長い尾羽の青い鳥が現れ、師匠が差し出した左腕に舞い降りた。そうして、宝玉のような青い瞳で彼女を見上げている。

 師匠はその喉を優しく撫でると、手紙を鳥の胸元に当てて息を吹きかけた。紙はふわりとまるで幻のように消え失せ、役目を理解した青い鳥は歌うように美しい一声を発したのち、優雅に飛び立っていった。


「あの鳥に何を?」

 イェリンが問うより先にレイフがそう尋ねた。師匠は窓の外を見つめたまま赤い唇で笑みを形づくる。背筋が冷えるようなその微笑みに、レイフだけでなく、ラグナも何かを感じたのかイェリンの肩を抱いて引き寄せた。何かから守ろうとでもしてくれるかのように。

「イェリン、あなたのそれがあのひとの仕掛けたものだとしたら、それに亀裂が入ったというのは尋常のことではないわ」

 真剣な眼差しに、重大なことを告げられようとしているのは理解できても、その真意は掴めない。イェリンにできたことといえば、ただぼんやりとした相槌を打つくらいだった。師匠は構わずに先を続ける。

「あのひとは、好奇心で無茶をする。けれど、組み上げる術式は一度作用したらほとんど永遠に作用し続けるほどに強固なもの。それが、あなたがような不具合を起こすとしたら、彼にも想定できなかったような事態が起きているか、あるいは——」

「あいつ自身に何かが起きた……?」

 言い淀んだ師匠の言葉を引き取ったラグナは、無意識なのかイェリンの肩を掴む手に力を込めた。痛みさえ感じるほどのその強さに、イェリンは事態の重さを悟る。

 ラグナにいだかれたまま、背筋を正した彼女に師匠はまっすぐに向き直った。何かを推し量ろうとするような深いその緑の眼差しを、イェリンは怯まず受け止めた。彼女がここにやってきたのは、きっとこの時のためだとわかっていたから。


「お師匠さま、私はどこへ向かえば良いんですか?」


 まっすぐにそう言った彼女に降ってきたため息は、三人分だった。

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