五 鎮めの呪歌
あの旅人から譲り渡された極彩色の炎。イェリンの心臓を核として
「——ッ、だめ……‼︎」
イェリンはその
だが、陽炎のごとくゆらめく色を失った炎は妖しく美しく彼女を包み込み、器ごと焼き尽くそうとする。目を閉じてさえわかるほどの視界を
違う、と必死に抵抗する。自分はそんなことは望んでいない。託されたこれを解き放てば、彼の期待を裏切ることになる。それがたとえ利用されただけだとしても、ここで何もかも終わらせることはできない。
彼女は、それほどにあの存在に恋焦がれているのだから。
「この
混乱の中、突然響いた涼やかな声でイェリンの
「そう、そのまま。ゆっくりと息をして」
急速に還元していく魔力の流れに息を詰まらせながらも、イェリンが見つめた先にあったのは、見たこともないほど真剣なレイフと師匠の顔だった。彼女の視線を受けて、二人は静かに頷き、レイフはさらに歌を続ける。嵐によって波立つ湖を凍てつく風で包み込むように、あるいは折れんばかりに揺れ動く森の木々を清冽な雨で鎮めるように。未だかつて経験したことのない苛烈な魔力に、決して屈さないしなやかな強さで。
額に触れた
心臓を突き刺すような痛みがイェリンを
師匠の指先から流れ込む森の魔力とレイフの歌声、そしてイェリンの中に込められていた彼の魔力の
やがて、痛みも和らぎ、ゆらめいていた白い炎の気配も消えた瞬間、緊張が解けると同時に最後の気力も失ってぐらりと倒れたイェリンを支えたのは、寝台の上の青年だった。
「大丈夫か?」
思いの外、しっかりとした腕に支えられ、慌てて身を起こそうとしたが体は言うことを聞いてくれなかった。師匠は含み笑いながら、イェリンをラグナの胸に頭を預けるようにして寝台に座らせた。
「そのまま少し温めてもらいなさい。大丈夫よ、彼は紳士のようだから」
「ふざけていないで、ちゃんと手当てしてやったらどうなんだ」
少し離れた場所から聞こえたレイフの声は怒気を
「ふざけてなんていないわ。その子が語っていた通り
病み上がりでもね、と艶やかに笑んだ師匠は宥めるようにするりとレイフの頬を撫でると寝台に向き直り、イェリンとラグナをまとめて暖かな掛布で包み込んだ。先日イェリンが織り上げた保温の印が縫い込まれたものだ。あいにくと、せいぜいが人肌程度の効能しか発現しないものではあったけれど。
「なっ、そんなくっついて……!」
「言ったでしょう、彼は紳士だし、こんなことでは動じないから大丈夫よ。ねえ?」
何やら慌てた様子のレイフに、師匠はいつも通りの艶やかな声でそう言うと、意味ありげな眼差しをラグナに向けた。青年は寝台に身をもたせかけると、そのままイェリンの肩を抱いて静かに頷いた。
「冷え方が尋常じゃない。せっかくの手がかりに何かあっても困るからな」
俺で役に立つのなら、とあまりこだわりはない様子だった。レイフは不満そうだったが、深いため息をつくと、立ち上がった師匠と入れ替わりに椅子に腰掛ける。
「……大丈夫なのか?」
探るような、それでも確かに気遣いの滲む声にイェリンは胸の奥が暖かくなるのを感じた。いつも皮肉ばかりだが、本質的には親切な性質であることはよく知っていたので。
「何とか大丈夫みたい。ありがとう、レイフがあんなに歌が上手だなんて知らなかった」
「あれくらい普通だろ。それにしたっていったい何があったっていうんだ? 不気味なくらい静まりかえってるってのに、めちゃくちゃ不穏な音はするわ、お前は燃えてるわ、妙な男はいるわ」
「えっと……それは……」
矢継ぎ早な問いかけに、どう説明したものかとちらりと見上げたが、ラグナは口をつぐんだまま肩をすくめるばかり。
師匠はといえば、相変わらずの艶やかな笑みを浮かべたまま、サイドボードの引き出しから若草色の紙を取り出して何かを書きつけている。そのまま窓際に歩み寄って優雅に指を振りながらいくつかの音の連なりを唇に乗せた。決して大きくはないその声に、けれどすぐに応えるように長い尾羽の青い鳥が現れ、師匠が差し出した左腕に舞い降りた。そうして、宝玉のような青い瞳で彼女を見上げている。
師匠はその喉を優しく撫でると、手紙を鳥の胸元に当てて息を吹きかけた。紙はふわりとまるで幻のように消え失せ、役目を理解した青い鳥は歌うように美しい一声を発したのち、優雅に飛び立っていった。
「あの鳥に何を?」
イェリンが問うより先にレイフがそう尋ねた。師匠は窓の外を見つめたまま赤い唇で笑みを形づくる。背筋が冷えるようなその微笑みに、レイフだけでなく、ラグナも何かを感じたのかイェリンの肩を抱いて引き寄せた。何かから守ろうとでもしてくれるかのように。
「イェリン、あなたのそれがあのひとの仕掛けたものだとしたら、それに亀裂が入ったというのは尋常のことではないわ」
真剣な眼差しに、重大なことを告げられようとしているのは理解できても、その真意は掴めない。イェリンにできたことといえば、ただぼんやりとした相槌を打つくらいだった。師匠は構わずに先を続ける。
「あのひとは、好奇心で無茶をする。けれど、組み上げる術式は一度作用したらほとんど永遠に作用し続けるほどに強固なもの。それが、あなたが壊れかけるような不具合を起こすとしたら、彼にも想定できなかったような事態が起きているか、あるいは——」
「あいつ自身に何かが起きた……?」
言い淀んだ師匠の言葉を引き取ったラグナは、無意識なのかイェリンの肩を掴む手に力を込めた。痛みさえ感じるほどのその強さに、イェリンは事態の重さを悟る。
ラグナに
「お師匠さま、私はどこへ向かえば良いんですか?」
まっすぐにそう言った彼女に降ってきたため息は、三人分だった。
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