六 花闇の夜(レイフ)

 そもそもの初めから妙な気配をまとっているなとは思っていた。目の前で見知らぬ青年と一緒に毛布にくるまっているイェリンを見ながら、レイフは内心でため息をつく。


 初めて会ったのは、冷え込みの厳しい初春のことだった。大陸の北に位置するカラヴィスでは春の到来を待ちことぐ宵祭りはまだ冷え込みの厳しい時期に行われる。一体どんな道程をこなしてきたものか、凍える真夜中、酒に酔った大半の大人たち——それも魔術師か研究者——をいやにすいすいと避けて真っ直ぐにこちらに向かってくる細い人影に、思わず目を奪われた。魔力と酒とにそこそこ酩酊めいていしていた彼は深く考えもせずに、ふらふらと引き寄せられるように近づき声をかけた。


「おい、こんな夜中に一人で何やってるんだ?」

「えっ、一人でって……まわりにいっぱいいますけど?」


 答えた声は思いのほか若い女のものだった。白銀鈴を鳴らすような、柔らかいけれど、どこかざらりと奇妙に引っかかる響きを宿したその声に、レイフは思わず眉根を寄せた。透き通っている美酒にほんの微かに雑味が混じるように、耳の奥を微かに刺激する不快な音。

 そんな彼の表情に気づいたのか、相手がびくりと肩を震わせた。

「な、何ですか。やっぱりここって関係者以外立ち入り禁止、みたいな……?」

莫迦ばかか、お前。こんな酔っ払いばかりの祭りに関係者もくそもあるか」

「ちょ、ちょっとひどくないですか……」

 頼りない抗議の声を上げながら、相手は被っていたフードを下ろした。闇の中でもふわりと浮き上がるような淡い金髪。彼を真っ直ぐに見つめる瞳は、極上の紫水晶を溶かして煮詰めたような深い紫色をしていた。

 吸い込まれるようにその瞳を見つめた瞬間、キィンと金属を引っかくような耳鳴りがして、思わず片耳を押さえた彼に、相手は慌てたように顔を覗き込んでくる。

「だ、大丈夫ですか? もう二日酔いとか……こんなに小さいのにお酒なんて飲むから」

「誰が小さいだ。俺は立派な——」

 言いかけて、彼は自分の目線がやけに低いことに気づいた。目の前の少女——そう、二十歳にも満たなそうな線の細い、けれど何やら好奇心に満ちた顔をした相手の肩ほどまでしかない。一体何が起こったのかと自分の両手を見つめ、それから深いため息をついた。

「どうかしたんですか?」

「いや……」

 低くなった目線で少女を見上げる。羽織っている灰色の外套がいとうは地味だがなにやらこちらも背筋がざわつく気配がした。恐らくは高名な、あるいは問題のある魔術師の持ち物であったとかそういうたぐいの。

 すぐ近くの魔術で磨き上げられた飾り姿見を覗き込んで、彼はもう一度ため息をつく。濃い金髪と空色の瞳は変わらない——けれど。


 ともあれ、明らかに世間知らずに見える少女をこんなところで放っておくわけにもいかない。それが必要であるからこそなったのだと思えば最大限活用すべきだ。そう割り切って、彼は少女の腕を取ると路地よりも中心の灯火へと引っ張っていく。

「ま、待ってください。私はイングリッドさまのお屋敷に行かなきゃならないんです。こっちは反対ですよね?」

 飛び込んできた聞き慣れた、だが厄介ごとの匂いしかしないその名に、レイフは首を突っ込んだことを早くも後悔し始めた。とはいえ聞いてしまった以上は捨て置くわけにもいかない。うんざりしながら少女を見上げると、彼女はきょとんと目を見開いている。

 ふと、その瞳を見つめているとまたあのキィンと耳鳴りのような音が響いた。同時にあたりに花の香りが漂う。広場の中心で燃え上がる炎の匂いさえ包み込んで覆い隠す、濃厚で甘美な頭の奥が痺れるような。

 彼でさえも、姿であれば、抗うことさえ困難な無意識の、圧倒的な魅了の魔力ちから。そこでようやく合点した。


 月の光で編み上げたような金の髪、妖精の血を浴びて妖しくも美しく咲くと言われる宵闇花よいやみばなの紫の瞳。


 の血の染み込んだ土を苗床に育ったそれに心惹かれるのは、ひどく背徳的だが、そもそも彼らはそういう性質を持つものでもある。それに屈さぬためにこの姿をとったのだとすれば、そのえにしはこの一夜のみではないということなのだろう。

「な、なんですか……?」

「何でもねえよ。あの魔女——じゃなかった、あのひとの屋敷なら俺が世話になってる師匠の家の隣だ。案内してやるよ」

「それは助かります。夜通し歩いてきたからもうへとへとで」

「夜通し? 女の一人歩きなんて危なくてしょうがねえだろう。この辺りは性格たちの悪い灰色狼も出るってのに。おまけにこの闇夜にどうやって街道を抜けてきたんだ?」

「どう、って……普通に歩いてきましたけど?」

 いくら闇に紛れる灰色の外套を羽織っていると言っても。普通なら野盗でさえ凍えるこの寒さに立ち往生するか、獣に襲われるかのどちらかだ。のうのうと一人であの街道を抜けてきたその異常さに呆れるし、漂う不穏な気配に本能は回避せよと告げている——いたのに。


「眠っちまったみたいだな」

 低い男の声でレイフははっと我に返った。目を向ければ、確かにイェリンは毛布にくるまれて、ラグナの肩に頭を預けたまま目を閉じて寝息を立てている。顔色は悪くはないから、単純に慣れない魔力の奔流と抑制による疲労が限界に達したのだろう。

 旅立ちの決意は、彼女の師匠によってすぐに承認された。たとえ反対されてもイェリンは飛び出していくだろうから、ならばせめて快く送り出す方がましだと考えたのかもしれない。そこに青年が同行することになったのも、事情を聞けばさほど意外なことではなかった。

「本当に、あんたも行くのか」

 レイフの問いにラグナは肩を竦め、片眉を上げて口の端だけで笑った。そんな仕草が嫌味に見えないのは、生来人好きのする性質の持ち主なのだろう。その心の奥底に抱える闇がどれほど深くても、本来の光を失わない程度には。

「元はと言えば俺が招いた災厄だ。むしろこのお嬢さんは置いていきたいくらいだが、あの様子じゃ連れて行った方が話が早そうな気もするしな」

「自信があるのか?」

 何に、とはあえて告げなかったが青年は察したらしかった。

「あの魔女も言っていただろう。どうやら俺は影響を受けにくいらしいからな」

 概ね禁句とされるその呼び名にひやりと背筋が冷えたが、本人は至って平然としている。大地の一族はもともと人より精霊に近いと言われているから、確かに常人よりも魔力の影響を受けにくい。だが、そればかりではないように思えた。

「あんた、いったい何者なんだ?」

「ただの山奥の村人さ。あんたこそいったいなんだ?」


 わずかに目を細めてそう尋ねた声に、レイフはしばし考え込んだ。それから立ち上がり、目を閉じる。同時に息を呑む音が聞こえた。目を開けると、高くなった視界で見下ろす形になった相手があんぐりと口を開けている。

「お前……いったい」

 年の頃だけなら、おそらくは同じくらいに見えるだろう。伸びた金髪は首の辺りで無造作に括られている。背の高さはラグナよりもやや高いはずだ。

「こっちがいつもの俺。そいつと相対する時だけ縮むんだよ。安全対策だな」

「安全、対策?」

「俺は妖精と人との間の子ハルヴィだ。そいつは俺の眷属の血を受けて生まれた宵闇花の精の血筋。俺たちは血が近ければ近いほど惹かれるから。まともに相対したらやばいんだよ」

「普通は逆じゃないのか?」

「人の子と妖精じゃ理屈も倫理も違う。説明は難しいな」

 それはさておき、と有無を言わさず毛布ごとイェリンを抱き上げる。

「あんたが影響されないのはわかったが、あいにく俺はあのひとほどあんたを信用できない。男の本能とこいつの魅了をよく知ってるんでね」

「お嬢さんに惚れてるのか?」

「あんたには関係ねーってこと」

「……ついてくる気は」

「ねーよ。俺はまだ見習いだし、をどうにかできる気もしねえしな。そんな厄介ごとに巻き込まれてたまるか。まあ見張りはつけとくから、手を出したりしたら承知しねえけど」

「素直じゃないな」

「うるせえ、あんたにはわからねえよ」


 人よりも妖精の方が遥かに魔力に敏感だから、圧倒的なそれに対する根源的な恐怖は比較にならない。だから、初手から厄介ごとの匂いしかしなかったイェリンになど近づかないのが正解だったのだ。けれど出会ってしまった上に、本能の恐怖をねじ伏せ、姿を歪めてでもそばにいようとするこの状況を、正直なところ彼自身でさえも図りかねている。

 それでも、誰にも——彼女が心惹かれているそれにさえ——渡したくないと思っているのは間違いがないわけで。


「難儀だな」

「まったくだ」


 呆れたような声に、うんざりしながらそのまま部屋を出る。イェリンの部屋は三階の一番奥。冷え切った部屋の寝台に彼女を下ろし、指先を一振りして暖炉と枕元の角灯に火をつけた。

 柔らかな光に浮かび上がるイェリンの表情は穏やかで、目を覚ます気配もない。それほどに消耗していながら、明日には元気に旅立っていくのだろう。自身に封じられたあの不可解で恐ろしい炎の恩恵を受けることで。

「ほんと、めんどくせえ」

 イェリンの旅に同道することは、実際のところ不可能ではない。だが、そのと相対したとして、今の彼にできることなど何もない。


 口に出さずとも、その名を脳裏に浮かべるだけで、レイフの手にじっとりと嫌な汗が滲んだ。


 ——尊敬、嫌悪、憧憬、畏怖。


 いくつもの相反する感情が呼び起こされ、だが、最後に残るのは混じり気なしの恐怖だった。

「厄介だろうとは思ってたけど、まさかの最悪かよ」

 思わず漏れた悪態に、イェリンが微かに眉根を寄せる。それでも目を覚ます気配はなかったから、しばらくその顔を見つめ、それからそっとその額に唇を寄せた。

「必ず方法を見つけてやるから、まあそれまで無事にいてくれよ」

 祈りの言葉と続けられた低い歌声に、イェリンの表情と寝息が穏やかなものに戻っていく。


 響く歌声と共にレイフの左腕に極彩色の炎のような花模様の刻印が浮かび上がったが、深い眠りに落ちているイェリンが知る由もなかった。


 第一章 花闇の宵灯火〈完〉

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