四 輝ける怨嗟、あるいは宵闇の炎
その瞬間を思い出して頬が熱くなる。両手で顔を覆って俯いたイェリンに、師匠でさえもしばらく言葉がないようだった。それもそのはず、弟子入りした際にはただ彼女の名と屋敷の書かれた手紙を見せただけだったのだ。
「アルディオス家からの紹介だとは聞いていたけれど、まさかあのひとだったなんて」
「アルディオス……名のある家なのか?」
ラグナの問いに、師匠は自分の唇を指先で撫でながらため息をついた。どちらかといえば厄介ごとを引き起こす張本人であることの多い彼女の師匠がこんな顔をするなんて。イェリンは内心驚きつつも、記憶の中から魔術師にまつわる家系の記述を引っ張り出した。
ここカラヴィスのある東の大陸には五氏族と呼ばれる、気が遠くなるほど古代から続く魔術師の家系があるという。
風のヴィンダ。風の谷と呼ばれる断崖に住む一族。織物や細工品が得意であり、空を自由に翔けると言われている。あまり物事にとらわれない自由人が多い。
水のヴァルタリ。大瀑布に囲まれた陸の孤島に住む。彫刻や農耕に優れる。どちらかといえば内気で温厚な性質で、集落からほとんど出てくることがない。
土のヨルヌ。地底湖のある洞穴を棲家としている。採掘や鍛治、金属工芸に優れる。魔術と鍛治を組み合わせた呪具や魔法道具の優れた発明家としても知られている。
炎のアルディオス。東の霊峰に住むと言われる。他氏族に比べ長命で、その数は多くないと噂されているが、当人たちがあまり自分たちのことを語らないため、詳細は不明。魔法陣や魔法薬を作り出すことに
最後がレスティアラ。北の果てに住む一族で、破格の魔力を持ち、その
いずれも人ならざる力を持つ者たち。その中でも突出して変わっているのがレスティアラとアルディオスだと聞いている。記憶にある彼と、その特質には確かに心当たりがなくはなかった。
そわそわし出した彼女には構わず、師匠はどこからともなく
いずれも魔力を宿すものではないが、親指の先ほどもある大粒のものばかり。美しくカットされ、向こう側が透けて見えるほどの透明なそれは、一つ一つの価値が計り知れない。
だが、師匠はその希少性に頓着する様子もなく、手のひらをかざすといくつか爪の先で弾きながら何かの音の連なりを唇にのせる。高く低く、美しいその声は辺りの空気をゆらめかせ、不可思議な響きで満たす。と、かざした手のひらの下で、貴石が微かに明滅し、やがて紅玉が一つ銀盆から転がり落ちた。
床に落ちた赤い貴石は——その硬度からすれば信じられないことに——ぱきりと音を立て砕けてその場で燃え上がった。ぼっと勢いよく上がった炎は、呆然としているイェリンとラグナの前で赤から白へと変わり、程なく消えた。
「紅玉が砕けて燃えるなんて……!」
「破格に物騒なあのひとらしいけれど……でも、不自然ね」
黒曜石の指先で唇を撫でながら、師匠は何かを考え込む様子だった。イェリンの師匠は時に魔女と呼ばれるほど魔術に
未来に限って言えば、いくつもの分岐の中から一番ありそうなものを語るだけだから、確定したものではないという。だが、そうして彼女の口から語り選び取られた運命はより強固なものとなりやすい。だからこそ、魔女と呼ばれるのだが、他者が口さがなく言うほどには
運命を覗き見るからこそ、人との関わりを避け、情を深めるのを避けるように。その心を占めるのが、たった一人の孤高の相手だとは、イェリンが知る
ともあれ、師匠は燃え尽きた紅玉の灰を指先で撫で、それからまっすぐにイェリンに向き直った。
「あのひとは、あなたに何を託したの?」
深い森の色の瞳は嘘や
握った拳の内側に熱が宿る。ほんのわずか、世界の均衡を崩さぬように、世界を恨み、呪い、滅ぼすまで消えぬと
「極彩色の炎の大半を。私はあのままの色とりどりの炎が良かったのに、なぜだか私の中に取り込まれたそれは、色を失ってしまうようで……。いくら試してもあんな風に美しい色にならないんです」
「あの炎を受け継いだ、だと……?」
「というよりは、単純に預けられただけだと思いますけど」
イェリンの答えに、ラグナはさらに眉根を寄せた。先を促す師匠の眼差しに、イェリンは話を続ける。
あの日、あの場所で目を覚ました時、イェリンは一人きりだった。日は暮れてすでに黄昏に染まっていたのに、体が冷え切った感覚ががなかった。不思議に思って起き上がると、するりと灰色の外套が滑り落ちた。同時にはらりと落ちたのは一通の手紙。
その手紙の最後には流麗な字でアルディオスと署名されていた。不可思議に発光する魔法印とともに。
それが、あの旅人の残したものだった。首を傾げながらも立ち上がり、そうして村があるはずの方向を見下ろして、イェリンは目を見張った。村全体が極彩色の——あの旅人が見せてくれたのと同じ炎に包まれていたのだ。
「あんたの故郷も……! やっぱりあいつが元凶なんじゃねえか!」
「ち、違います! 村は焼けてしまったけど、でも、ほとんど被害はなかったんです。まあ建物は跡形もなく焼けちゃいましたけど」
「それで被害がなかったって——つまり、人的被害がなかった、ということ?」
師匠の言葉にイェリンはこくりと頷く。彼女の村を焼き尽くした炎は、だが、不思議と人も家畜をも襲わなかった。生き物の気配を感じると、火勢を抑えて留まったのだという。けれど、人がその場を離れると、容赦無くあらゆるものを焼き尽くした。まるで、意志を持つかのように。
「意志を持つ……炎」
ラグナがそう呟いた。心当たりがあるのか、とイェリンが視線を向けたけれど、彼は歯を食いしばるようにして俯いてしまう。師匠はといえば、ただ静かに首を横に振るばかりだったから、イェリンはゆっくりと話を続けた。
あの旅人の口づけを通して流れ込んできたのは、圧倒的な魔力だった。全身を
——この炎を一時的にせよ、無害化することができる者がいようとは。
「無害化……あの
「私にはよくわかりません」
疑わしげなラグナの眼差しに、イェリンはただ首を横に振る。彼女がわかっているのは、あの旅人から炎を分け与えられたこと。そして、その炎は今は彼女の心臓を核として
宵闇花の精の性質を持つ彼女は人と同じ生活ではやがて己が命か周囲の命のどちらかを犠牲にせざるを得なくなる。だが、この身の内を巡る炎がそれを打開するかもしれない。
生きとし生けるもの全てを恨み呪い、破壊し尽くさずにはいられないほどの強大な怨嗟。それを一度完全に器に封じ、それから少しずつ溶け出すようにして身のうちに取り込んでゆく。イェリンの体を触媒とし、宵闇花の精としての性質でその情念を糧に変える内燃機関とする。理論上は可能だとあの旅人は言ったが、確信がなかったのは明らかだ。
「まあ、過剰な好奇心と手段を選ばない研究によって前人未到の数多くの功績と、呪いを残したひとだから」
「……つまり?」
「この子の性質を利用して実験をした。たまたまうまくいったので、さらなる
「器の強化……?」
師匠の言葉に、ラグナがさらに眉根を寄せる。
「こいつにもっと何かを取り込ませて利用しようとしている、とでも?」
「というよりはむしろ——」
言いかけた師匠が不意に驚いたように口をつぐむ。同時にイェリンの中で何かがざわめいた。イェリン、と師匠がいつになく切羽詰まった声で呼びかけるのを、珍しいこともあるものだ、とどこかのんきに考えている間もなく、ぴしり、と鋭くひび割れるような音がした。目の前の二人が今度こそ大きく目を見開いて、彼女をじっと見つめる。身のうちのざわめきははっきりとした違和感になり、イェリンは自分でも気付かぬうちに両手で自分を抱きしめるように包み込んだ。ぐらりと世界が揺れるような目眩が彼女を襲う。
ばきりという明らかに何かが砕けた恐ろしく不穏な音。それは、イェリンの内側から響いてきたものだった。
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