三 宵闇色の旅人
イェリンにとって、魔法はずっと
そんなものはお
だからこそ、イェリンはあの炎を見た瞬間、一目で心奪われてしまったのだ。
山奥の村の、そのまた奥の森の中を抜けた先にある開けた高台。村を一望できるその場所で、彼女はそのひとに出会った。
灰色の
ふと、灰色の瞳がイェリンをまっすぐに捉え、面白そうに細められた。
「ふむ、
薬草としては名高いが、本来花をつけることのない
古くから彼女の住む村でも語り継がれてきた、他愛のないお伽話。そう誰もが笑い飛ばすのに、けれどその実、伝承と同じ、月色の金の髪と紫の瞳を持つというだけで、イェリンは
「違います、私はただの……」
「何、
美しく若々しい容姿にそぐわない古風な言い回しにきょとんとしているイェリンに、何やら急に目を輝かせた旅人は彼女の頬を両手で包み込み、じっと瞳を覗き込んでくる。身の丈は頭半分ほど相手の方が高い。間近に見れば、長いまつ毛にごく繊細な
「あ、あの……手を……」
「ふむ、確かに人の子のようだ。だが、気配は花闇のそれじゃの。とりかえ子か、先祖返りか。そなた親は?」
「あ、半年前に
「なるほど。母の容姿は?」
「
「手際のいい回答よの」
それはもう、とイェリンはため息をつく。何しろ山奥の村だから、口さがない住民も多い。イェリンの母はそんな中でも自由な気質で、十七で村を飛び出し、お腹にイェリンを宿して帰ってくると、以降は何事もなかったかのように村に居着いたらしい。
生まれた子供が金髪紫眼と
ふう、とため息をついた彼女に、旅人は頬を包み込んだまま首を傾げた。
「何やら
「お母さんが亡くなるなり、村の人たち——特におかみさんたちが意地悪になって」
それまでは、普通に接していてくれた人々、特に夫を持つ女性たちから、近寄れば災厄を振り撒き、あるいは
布やその他の日用品も手に入るのは最小限。親を亡くして半年と少し、蓄えも尽きそうだし、そろそろこんな村など飛び出して、どこかで気楽に暮らそうかと考え始めていた矢先だった。
「それは仕方あるまい。宵闇花の精は人を惹きつける。ましてやこんな山奥では、他に頼るものとてない女たちが警戒するのもやむを得まい」
「でも、私は……」
「自覚がないのか。この半年、食べるものとて苦労したであろうに、そなたのその艶々とした髪と肌。人の精気を
「ええっ、それじゃまるで化け物みたいじゃないですか」
「人とは異なる食性をもつモノをそう呼ぶならば、正しくそなたは化け物じゃの」
あまりに率直な物言いに、イェリンが返す言葉もなく大きく目を見開いてぽかんとしていると、相手はくつくつと低く笑い始めた。そうして破顔した様子は、端正な顔に似合わずどこか子供っぽく見えた。老成した口調と、それとは不釣り合いなやけに子供じみた好奇心と。そうして、先ほどからの
「もしかして、魔術師なんですか?」
魔法を生業とする魔術師は、その容姿と年齢が一致しない。時には精霊と比肩するほどに長い時を生きる者さえもいると聞く。
唐突な彼女の問いに、相手は否定するでもなく首を傾げた。
「ふむ、そのあたりの境界は曖昧だの。肩書きで言うのなら、研究者と名乗っておったが
滑らかな顎を撫でながら、何やらぶつぶつと考え込む相手に、イェリンはただただ目を丸くするばかりだ。どうやら魔術師、という肩書きはしっくりこないらしい。とはいえ、まるきり否定するわけでもない。
「魔法、使えますか?」
「うむ、簡単なものであれば、ほれ」
そう言って、自分の胸元に当てた相手の手のひらから、みるみるうちに光が溢れ出した。赤、青、紫、黄色に白、さまざまに色を変える鮮やかなその炎は、けれど不思議と熱くはなかった。魅入られるように手を伸ばすと、相手はほんの少し目を眇め、けれど何も言わずに胸元で一度拳を握ると、イェリンにむけて手を開いた。
月のように美しい爪が輝く美しい指先も、今の彼女の目には入らなかった。ただただ、手のひらの上で絶えず色を変えながら揺らめく炎ににじっと見入り、ややしてついに触れた。
途端、全身を貫くような激痛が走った。触れているのは指先のほんのわずかな部分だけ。普通の炎に焼かれるような熱も痛みはなく、
「ふむ、興味深い。
言葉通り、面白そうにこちらを観察するような眼差しに、不思議と苛立ちも困惑も湧いてはこなかった。全身を耐え難いほどの苦痛に苛まれながら、流れ込んでくる炎から伝わるそれは、憎悪と悲嘆。それらはずっと相手の胸に封じ込められていたことが伝わってしまったから。
だが、相手はそんなことはお構いなしに、興味津々——というよりはもはや、うっとりといった表情でイェリンを見つめる。
「この輝かしい怨嗟を取り込みながら、なおそのように正気を保っていられるとは、実に興味深い」
「あなたは……どうして……こんな……もの……を?」
苦しい息の下からそう尋ねた彼女に、相手はさて、と顎を撫でながら首を傾げる。まるで、そんなことは考えたこともなかったとでもいうように。
「そうさの……痛みは薬で何とでもなるから封じておくだけなら、さほど苦労はせぬ。問題は、これですべてではない、ということじゃの」
それは彼女の問いに答えてはいなかったけれど、それはあえてなのだと向けられた眼差しで彼女は気づいた。鮮やかな色彩を映しながら、どこまでも冷徹で澄んだ灰色の瞳。
まっすぐに向けられたそれを見つめ返した瞬間、どくん、とイェリンの心臓が大きく跳ねた。とくとくとくと鳴り始めたそれはうるさいくらいで、けれど、差し出された手のひらの上の炎が大きく噴き上がって、それどころではないと混乱する。
炎はさまざまに色を変え、そのまま何かを求めてゆらりと
「そなた、名は?」
静かな声に潜む、微かな焦燥を確かに感じ、イェリンはためらいもなく答えていた。
「アルイェリニア」
普段の呼び名ではない、母からは本当に必要な時以外には秘すようにと念を押されていた真名を。
「
ひどく満足げに笑った相手は、差し伸べていた手でイェリンの手首をぐっと掴んだ。
「ふむ、これでは効率が悪いな」
そう言って笑った相手は、今度はイェリンの頬を両手で包み込んで引き寄せた。炎の気配のない、滑らかでそればかりは常人と変わらず温かい手のひらで。
「私はイクス・アルディオス。我が
端正な顔が近づき、唇が重なる。え、と驚いて開いたイェリンに薄く笑った相手は遠慮なく深く口づけた。そうして、流れ込んできたのは、
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