二 先見視の弟

 二人が消えた床の上には赤黒い染み。しばし呆然としていたイェリンは慌てて薬草室へと駆け込んだ。

 頼まれた通りの薬湯やくとうと塗り薬を手早く用意し、二階へ上がる。銀盆ぎんぼん紫玻璃しはりの小瓶と陶壺を載せたまま、扉の前で呼吸を整えながら待つことしばし。

 ほどなくして扉は開いたが、そこに師匠の姿はなく、寝台ベッド脇の椅子に静かに座り込んでいた。そうした不思議はここでは当たり前のことになっていたから、後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと歩み寄る。師匠はちらりと視線を向けただけで、銀盆をサイドボードに置くように無言で促した。イェリンも黙って頷き、銀盆を置いて少し下がる。師匠がこうして沈黙を続ける時は、同じようにするのが魔術師の弟子としてのつとめだった。


 寝台の上の青年は、年の頃はイェリンよりいくつか上に見えた。それなりにしっかりとした体つきだが、しょうすいの色が濃い。熱に浮かされているのか眉根を寄せた顔は険しく、荒い呼吸と共に胸が大きく上下している。

 カラヴィスでも揉め事や魔術・研究がらみの事件は日常茶飯事だったが、それでもこれほどの重傷人はほとんど見かけたことがない。ここにたどり着くまでにどれほどの苦難があったのか。自身のかつての長旅を思い出し、イェリンは胸元でぎゅっと手を握って眉根を寄せた。

 何にせよ、青年の意識がないのは明らかだ。どうするのかと問いかけるイェリンの眼差しに、師匠は赤い唇で美しく微笑んで小瓶を青年の口にあてがった。そうして小さくいくつかの音の連なりと呟くと、ややして青年がうっすら目を開けた。師匠と目が合うと微かに眉根を寄せたが、それでも頷いて少しずつその液体を飲み込んでいく。


「よかったわ、目を覚ましてくれて。私の口づけは高くついてしまうから」


 イェリンには冗談には聞こえなかったが、青年は笑ったようだった。小瓶の中身を飲み干した後、深く息を吐くようにして目を閉じた。薫衣草ラヴァンドラの薬湯の主な効能は安眠。だが、師匠の作るものがであった試しなど一度もない。

 死と見紛うほどの深い眠り。そうして急激に身体を休眠状態にした上で、尋常ならざる回復力を引き出す。わずかでも誤れば二度と目覚めぬこともあるという、絶妙な薬草と魔力の量の配合によって作り上げられたそれは、どうやらこの青年にも効を奏したらしかった。


 ほんの半刻ほどの昏睡の後、彼は思いの外しっかりとした様子で目を覚まし、半身を起こした。イェリンはその背中にすかさずクッションを滑り込ませた。最近仕上がったばかりの安眠の魔法陣の刺繍ししゅう入りカバーをかけてある——なお、魔法陣自体は糸の魔力が少なすぎて常時発動しないことは検証済みだったけれど。


「イェリン、あとで刺繍糸は解いてね? 永眠してからでは遅いわ」

「……はい」 

「どんな物騒な代物しろものなんだ、これは」


 低い声は意外と穏やかで心地よい響きだった。行き倒れるほどやつれ、無精ぶしょうひげも生えた顔はややむさ苦しいが、顔の造作つくりそのものは端正な部類に入りそうだ。しっかりとした体つきと相まって、髭をり、身なりを整えればなかなかの好青年に化けるかも知れない。

 とりあえず裏に縫い込んだ恋の魔法陣については——自分で試したところ、恋情に関する箇所の縫込みが甘かったらしく、微熱が出ただけだったし——黙っておくべきかしらとイェリンが一人考え込んでいる間にも、師匠は手早く青年の服を脱がせ、傷を確認して手当てをしていった。

 青年の体にはあちこちに切り傷と、そして火傷やけどあとがあった。どれも深いものではないが、あまりに広範囲に渡っている。

「最初の手当てが良かったのね。そうでなければ、傷痕が一生残ってしまったかもしれないわ」

「手当て……?」

「あら、気づいていなかったのね。あなたが負った本当の傷はこんなものではなかったはず。体表と体内の熱の均衡バランスが異常だったもの」

 師匠がくすくすとたのしげな笑い声を上げた。青年は怪訝そうに眉根を寄せつつも師匠に向き直り、それからひとつため息をついた。


「あんたが魔女か」

 ひぇ、と思わず息を呑んだイェリンには構わず、師匠は艶やかに微笑んで頷いたので、ますますイェリンは飛び上がりそうになった。彼女の師匠を魔女呼ばわりして無事に済んだ相手は今までほとんどいなかったというのに。

「あの……お師匠さま?」

 思わず口を挟んだ彼女に、けれど師匠は構わず青年をまっすぐに見つめたまま言葉を続ける。

「私はイングリッド。あなたは?」

「知っているんじゃないのか」

「そうかもしれないけれど、初対面では名乗るのが礼儀ではなくて?」

 師匠に礼儀を説かれる相手など初めて見たから——普通は門前払いされたり、ひどい時にはその場で消されたりするので——イェリンははらはらしながら見守っていたが、青年はあまり動じた様子はなかった。青空のような透き通った瞳を何かを見極めようとするかのように細め、ややして低い声でラグナ、と名乗った。


 ラグナ。戦士、あるいは審判。


 その名はなぜかイェリンの胸の奥にちりちりとした焦燥のようなものを呼び起こした。知らないはずなのに、どこかで聞いたことのあるような。


 そんな彼女の様子には構わず、師匠がまじまじと青年を見つめ、にっこりと微笑んだ。

「北西の大地の精霊の息吹に守られた深い森、その先にあるダレンアールのたぐいまれなる先見視さきみロイの弟のラグナ。会えて嬉しいわ」

ながこうじょうは魔女のお得意か? 言っておくが、兄貴とは違って俺は何のもない。研究だの何だのはお断りだ」

聡聴きこえの魔力を持つひとを何の取り柄もないとは言わないと思うけれど。まあ、いずれにしても研究などしないわ。弟子に取ったのもあなたの兄と、この子の二人だけ」

 それも本人たちのたっての望みでね、と意味深に向けられた眼差しに、イェリンができたことといえばせいぜいにこやかに微笑むことくらいだった。


 ラグナは眉根を寄せて、それでも先ほどまで昏睡こんすいしていたとは思えないほどしっかりした様子で口を開いた。

「兄貴は……ロイは、故郷ダレンアールで起きたことを知っているのか?」

「……いいえ。もし知っていれば、戻らずにいられるはずはないでしょう?」

「先見視も働いていない?」

「あの子は幾度もそれを夢に見たから、もうそれが未だ不確定な幻視みらいなのか、起こってしまった現実なのかの区別がつかないはず。たとえ白昼夢にそれをたとしても、ね。報告書は上がっているけれど、彼がそれを目にすることはない」

長老会議ジジイども隠蔽いんぺいしているのか」

 話の筋が見えずに戸惑うイェリンに、師匠は青年と目配せをしてから語り始めた。


 この大陸の北西に位置する深い森。その森を抜けた先にある山奥にあるダレンアールは大地の精霊との縁が深く、古い血筋を持つ人々が住んでいる。ラグナとその兄——彼女の兄弟子でもある——ロイはその村の出身だという。


 だが、そのダレンアールとふもとの村クルムが跡形もなく滅びる惨事が起きた。建物はすべてその形を留めずに焼き尽くされ、麓の村では人も家畜もただ影のみが地面に染みのように残されていた。そのきっかけとなったのが、ダレンアールの村に開いた大穴を調査にやってきた旅人であり、村を焼き尽くしたのはその穴から吹き出した、ごくさいしきの炎だったという。


「幸い、俺の村では村長むらおさが兆候を感じるなり避難を促して、人的被害はなかった。だが、麓の村では……」

 ぎり、と青年は血管が浮くほどに拳を強く握りしめる。イェリンはその話をどこか夢の中のように聞いていた。脳裏に浮かぶのは、今でもはっきりと思い出せる、鮮やかな色彩。

「……旅人と、極彩色の炎」

 呟いた彼女に、青年が怪訝そうに彼女を見つめる。けれど、イェリンにはその様子すら目に入っていなかった。


 今でも鮮やかに記憶に刻みつけられた、視界を埋め尽くす色とりどりの炎。そして、彼女に二度と忘れられないようなを刻み込んだ上に、置き去りにした端正な横顔。


「あんたもあいつの被害者か」

 目を見開いてそう言った青年の言葉に、ようやくイェリンははっと我に返った。師匠も珍しく真剣な表情で彼女を見つめている。久しぶりに思い出した目のくらむようなその光景がまだ視界に残っているような気がして、一つ頭を振ってから二人に向き直った。

「あいつ、とおっしゃいますと?」

「長い黒髪に灰色の瞳。顔だけは綺麗な、無害を装った歩く災厄さいやくだ」

「ええっ、あのひとをご存知なんですか⁉︎」

「ご存じも何も——」


 ラグナが苛立たしげに言いかけた時、窓をこつこつと叩く音がした。師匠が立ち上がり、確認してから窓を開く。飛び込んできたのは美しく長い青い尾羽を持つすらりとした鳥だった。翡翠尾鳥、あるいはただ単に青い鳥、と呼ばれるその鳥は望む相手に伝言を届ける役割を負う。特に、尾羽の長い鳥は危急のしらせをを運ぶ鳥として知られていた。


 青い鳥から報せを受け取った師匠は振り返り、唇に人差し指の指先を当てながら悩ましげなため息をついた。

「お師匠さま……?」

「悪い知らせか」

「ラグナ、あなたが最後にに会ったのはいつ?」

「……あの大穴で会ったきりだ」

「それから半月。あなたがここにきたのは、なぜ?」

 ラグナの瞳に鋭い光が浮かぶ。相対する師匠の瞳は底知れぬ深さを湛えたままで、やがて折れたのは青年の方だった。

「あいつは魔法学術都市カラヴィスから来たと言っていた。ここに来れば、あいつにつながる手がかりが得られるかと」

「あの場所で、彼は何をしたの?」

「その前に、青い鳥の運んできた報せを教えてくれ。何が起きた? 長尾羽なんて、余程のことだろう」

「……東の霊峰ルウェスの麓の村エルムスタと、南の八峰の街、セレスベルグが消失したと」


 消失、という言葉の意味を理解するまでにしばらくかかった。それが、文字通りに何もなくなった、という事実であることにも。青い鳥は言葉ではなくイメージを伝えてきたのだ。


「どちらも黄昏時たそがれどきに極彩色の炎が津波のように飲み込むのを見た、という報告が上がっているそうよ」

「……あいつは?」

「灰色の外套がいとうをまとった長い髪の人影を見た、という報告がいくつか。それから、どちらでも五氏族の魔力の痕跡が認められたと」

 静かな声に、ラグナの表情がさらに険しいものになった。苦情にはなかなかの耐性を持つイェリンでさえ眉を顰めたくなるような、思いつく限りの罵詈雑言を吐くのを聞き流しつつ、けれどとある言葉にぴんと耳をそばだてた。

「あいつはそうやって破壊を楽しんでいるんだ」

「え、そんなはずありませんよ」

 きっぱりと言い切った彼女に、ラグナだけでなく師匠もまた彼女をじっと見つめる。二人のそれぞれ色も質も違う、真っ直ぐな眼差しにやや怯みつつ、それでも彼女はきっぱりと言った。


「あのひとは、あれを止めるために旅を続けていているんです。その身を、あの炎にむしばまれながら」


 イェリンの確信に満ちた声に二人は——師匠にしてはごく珍しいことであったのだけれど——ぽかんと口を開けた。

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