第9話

 眩んだ目が元に戻ってきたときには、國臣のすぐ目の前にライトを持った黒沼が立っていた。


 初老という感じの黒沼は、たくましい身体が分かるほど薄手のコートを着ている。地上の気温と比べてここは幾分高いが、薄手の羽織で堪えしのげるほどではない。なのに寒がる素振りをまったく見せない。普段からこの環境に慣れており、鍛えていなければこうはなれないだろう。


 爪先から頭までまじまじと観察されている間、國臣は両手を挙げて無抵抗を示すように口を結ぶ。見た目は初老だけど、普段トレーニングせず授業でしか運動することはない國臣では力じゃすぐ負ける。逃げ足だって自信はない。でも逃げられるのなら逃げたかった。

 緊張しながら黙って待つと、黒沼は口を開く。


「あんちゃん、怪我してんじゃねぇか。どっからここに来たんだ? 何しにここへ? ここがどこだか分かってんのか?」立て続けに訊く。

「いえ、足を踏み外して落っこちちゃって。ぶつけたのと、戻れなくて……」

「落ちた……ということは、本当に何も知らねぇんだな? ここのこと」


 國臣は頷いた。すると黒沼は頭を掻いて考え出す。國臣は地下にこんなに続くトンネルがあったことは知らなかった。小学校で地元の歴史を学んだこともあったが、地下の話は何ひとつなかった。だからこの場所はかつて使われたが今は放棄された場所なのだろうと考えている。そして、目の前にいる男は何かしら理由があってここで生活をしていると。

 訳ありな人なんて山ほどいる。自分だってそうなのだ。訳あって手袋を常にしているし、地下へと落っこちた。それだけのこと。深く説明するほどのことではない。


「怪我とその顔じゃあ、本当に知らなさそうだな。わかった。着いてこい、遠くなるが安全に地上に出られる所までは案内してやる」




 黒沼について歩いていると落ちたときに負傷した脚の痛みが増してきた。疲労が溜まっていることも相まって、國臣の足取りは重くなっていき引きずるように歩く。顔色も悪くなっており、息づかいも荒い。それでも何とか着いていこうとしているが、だんだんと距離が離れていく。


「おいおい、こんなんでへばったのか?」

「すみません……」國臣は脂汗を拭いて答える。

「全く。今時の若いモンってのは安全帯に居座って無茶はしないって思ってたんだが、お前さんは違うみたいだな。仕方ねぇ、ひと休みとするか。近くに部屋もある。そこまで行けそうか?」

「はい」壁に手を付けながら言う様は信用ならない。見かねて「肩を貸してやる」と提案されたが、首がもげそうなくらい振って拒否した。

「それなら気張れよ」


 ここまでもう一時間近く歩いている。だから黒沼の言う近くというのがどのくらいなのか不安を抱きつつ、重い身体でゆっくりとなんとか進んだ。



「ここだ」と黒沼が足を止めたのは、入り組んだトンネルの突き当たりだった。鉄の扉の横には『Break room』の文字が刻まれた手作り感のあるプレートが掲げられている。黒沼が強い力を込めて扉を開けば重い音を立てる。


 ずかずかと入って行く黒沼。おっかなびっくりに國臣は覗き込む。内部はエントランスのようなひとつの広い空間が広がっていた。仄かな照明が灯っていて、先ほどまで歩いて来たトンネルの中と比べればかなり明るい。広い部屋なのに左右に二つずつ別の部屋に続く扉もある。地下施設としてはあまりにも綺麗すぎる。

 誰もいないのかと思いきや、左の扉が開き、皺のある襟付きシャツにパーカーを着た人が現れた。


「ん? 黒沼。何か用事?」


 長い前髪で片目しか出ていないものの、光のない目をしたその人物は言う。見た目では判断できなかったが、声質は高く背丈が低いのでかろうじて女性、そして姿勢からも比較的若いと分かる。


「ああ。先生、このあんちゃんを診てやってくれねぇか? 顔色がひでぇ。この環境に適応できてねぇんだ」

「ふぅん。別にいいけど、高くつくよ?」

「酒だろ? あとで持ってきてやる」

「ラッキー。で、誰なの、この子」

「知らねえ。歩いて来た方角からして、だいきゅうぐちから迷い込んだんだろうな。あそこの老朽化は酷いもんだ。塞ぐか修繕するかって検討してただろ」

「ああ、あったねそんな話。どーでもいいから聞き流してたわ」


 さぞかしどうでもいいというような受け答えをした女は「そこのソファーに寝な」と言う。

 そこ、と指をさした場所には真っ黒な三人掛けのソファー。テーブルとスツールもあり、まるで来客用スペースのようになっている。

 國臣は言葉に甘えて、ソファーに座るとどっと疲れが襲う。今にも瞼がくっついてしまいそうなところと、かろうじて残る正気で意識を保つ。このまま眠ったら何が起こるかもわからない。見知らぬ場所、見知らぬ人。触れられればスコアが変わる。積み上げてきたものが無くなる。痛む脚をさらに手で押して痛みを増幅させることで何とか耐えていた。


「こんなとこに来ちゃうなんて、アナタもツいてないね」


 座った國臣の傍までやってくる女。近くで見るほどその目は死んだ魚のように輝きがない。


「汗多いね。風邪っぽくはなさそうだけど、熱? 第九口は結構ボロボロだったけどよくあそこから入ったね。階段使えた?」

「いや、落ちて……」

「怪我は?」

「あちこちぶつけて」


 國臣はぽつぽつと答える。


「見せて」


 女が國臣に手を伸ばしてきた。さっきまで力すら抜けていた國臣だったが、反射的にその手を振り払う。直後、やってしまったとさらに顔を青ざめた。


「へえ。その反応。もしかして体質系?」手を引っ込めて、女はニヤリと笑う。対して國臣は目を背けて小さく首を振った。

「知ってるよ、君みたいな体質。こう見えてさ、上にいるときは研究所のドクターしてたんだよ。いろんな人を診てきたけど、触られたくないとなると……イレイサーもしくはカメレオン?」

「……カメレオン」

「そ。わかった。じゃ、自分で患部出して」


 カメレオン体質という名称は特異的体質研究所が認定した人もしくは、研究者にしか知られないものだ。それを知っているということは、本当に研究所にいたのだろう。彼女には全てを見透かされてしまう。國臣は素直に痛む脚を見せた。


「傷口は浅いし、出血はほとんどない。熱は疲労からかな。冷やすものと飲み物持ってくるから、しばらく休みな。寝たら回復するよ。君、若そうだし。ほら、さっさと寝な。大丈夫、その体質を知ったからには触らないよ」

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