おとぎの国

増田朋美

おとぎの国

その日は、秋であるというのに暑い日で、寒いなあというより車の中ではエアコンを付ける必要があるくらい暑かった。それでも、森に周りを囲まれた奥大井は、爽やかで涼しいものであった。そんなところだから、穏やかで別世界と言われるのかもしれない。最近井川線の乗換駅である、千頭駅の近くに、音戯の郷とか言うテーマパークができたというのだから、より現実から離れ、テーマパークで遊ぶための場所に、奥大井はそうなっているのかもしれない。

その日、接岨峡温泉駅から、いつもの通り電車に乗って千頭駅にやってきた亀山弁蔵さんは、大井川線の電車に乗ろうとして、小さな男の子が、ホームにぼんやりと立っているのを見つけた。なんだか、その小さな体に合わず、大きなバッグを持っている。その中に、ピアノの譜面がはいっているのが見える。なんだか観光という感じではないなと思った弁蔵さんは、

「僕、名前は?」

と、声をかけてみた。

「僕、佐藤良樹。」

小さな男の子はそう答えた。

「お年は?」

弁蔵さんが聞くと、

「6歳。」

佐藤良樹くんはそう答えたのであった。

一方、富士市にある、居場所のない人達に部屋を貸し出す福祉施設である製鉄所と呼ばれている建物では。

「相変わらず、ご飯を食べないな。」

杉ちゃんは、大きなため息を付いた。

「すみません。なんだかどうも食欲がわかなくて。」

水穂さんは、布団に横になった。

「食欲の秋であるはずなのによ。もうな、ご飯を食べないと、元気が出ないというか、力がつかないんだよ。ご飯も野菜も大事なもので、動く力や体力のもとなんだよ。ご飯は、馬鹿にしちゃいけないんだ。それに持ち主が成仏するためにもうまいうまいと言って、しっかり食べること。それが、大事なの。だから、食べるということは、死んでくれた植物や動物を供養するためでもある。それを思って、ちゃんと食べるの!」

杉ちゃんに言われて、水穂さんはそうですがといった。それと同時に、

「こんにちは。亀山です。川根茶をお届けに参りました。本当は宅急便で送っても良かったと思いますが、奥大井には営業所が少ないため、こちらで持ってきてしまいました。」

と、玄関先から弁蔵さんの声がした。

「ああ、弁蔵さんだ。そういえば今日来るって言ってたな。どうぞ入れ。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんも布団の上に起きて、その上に座った。

「ほら、入りなさい。大丈夫ですよ。こちらの人たちは、何も悪いことはしないから。」

弁蔵さんがそういう声がしたので、水穂さんと杉ちゃんは顔を見合わせた。その間に弁蔵さんは、足を引きずって製鉄所の中にはいってきた。

「こんにちは。」

小さな男の子の声がしたので、杉ちゃんも水穂さんもびっくりする。

「ああ、こちらの少年は、佐藤良樹くんで、僕が千頭駅に行ったところ、一人でホームで立ち往生していまして、親の姿も見えなかったので、放っておくわけにも行かず、連れてきてしまいました。なんでもピアノのレッスンに行くようだったようです。このカバンにはいっている曲を見てもらうようだったようで。」

と弁蔵さんは説明した。確かに小さな男の子は、布でできたカバンを持っていた。その中にはヘンレ版の楽譜がチラチラ見えた。水穂さんがちょっとそのバッグ見せてくださいというと、良樹くんはカバンを差し出した。

「ドビュッシーのアラベスク。かなり、高度な技術がいる曲ですね。」

水穂さんが言った。それと同時にカバンの中から切符が出てきた。なんでも、その切符の内容から、奥大井湖上駅へ向かう予定だったらしい。

「奥大井湖上駅に向かう途中だったのか?」

杉ちゃんが驚いてそう言うと、

「なんのためにそのような駅へ行く切符を持っていたんですか?」

と、水穂さんが優しく聞くと、

「だって、、、。」

と、良樹くんは泣き出してしまった。

「僕もそれが不思議だったんですが、多分、なにかあって、発作的にとっさに電車に乗ってしまったんではないかと思います。奥大井湖上駅への切符を買ったのは、きっと行き先など考えていなかったんではないでしょうか?」

と、弁蔵さんが言った。

「ご家族には、なんと言って、でかけたんですか?」

水穂さんが聞くと、

「ピアノの先生に会いに行くと言って、、、。」

と、良樹くんは答える。

「それでは、お前さんの住んでいるところはどこだよ。」

と杉ちゃんが言うと、

「静岡駅の近くだそうです。ピアノの先生は、金谷駅の近くに住んでいるらしくて。静岡駅から金谷駅までは、スイカできたそうですが、それ以降は、現金で、持ち前のお金をすべて使って切符を買ってしまったらしいんです。」

弁蔵さんが説明した。

「そうなんだ。じゃあ、お前さんは、申し訳ない言い方だけど、家出してきたわけね。最近は、変な事で家出を考える子供が多いからねえ。」

と、杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「もしかしたらということですが、あなたは死んでしまおうと思ってしまわれたのでは?」

水穂さんが優しく言った。

「大丈夫です。僕たちは、あなたのことを責めるわけではありません。だって、それなりに理由があったはずです。子供さんであっても、それは明確にあるはずです。それはちゃんと理解しようとしてあげないといけませんよね。」

「だって、、、僕は、明日音戯の郷へ連れて行ってもらうつもりだった、、、。」

良樹くんは泣きながら言った。

「音戯の郷?」

水穂さんが言うと、

「はい。千頭駅の近くに最近できたテーマパークです。全くね、川根本町はいろんなところにテーマーパークを作ってますよ。全く作り過ぎだと思うんですが、大井川鉄道の繁盛に便乗して、いろんなテーマパークができてますよね。」

と弁蔵さんが言った。

「それなのに、おじいちゃんが急に怒り出して、連れて行くなっていうから、それでいけなくなっちゃった。」

「おじいちゃんが急に怒り出したんですか?認知症でもあったんでしょうか?」

水穂さんがそうきくと、

「ううん、違うよ。ママはおじいちゃんに絶対嫌だって言えないの。僕のうちは、換気扇を回すことだって電気がもったいないから使っては行けないっていう、家なんだよ。」

良樹くんはそう答えた。

「そうなんだね。おじいちゃんは、今は元気なの?」

「ウン、元気だよ。でも、ママとパパのことを信用してなくて、いつも喧嘩ばかりしているんだ。おばあちゃんがいたときは、まだそんな事なかったけどさ。おばあちゃんが逝ってからは、もうみんなの言うことを聞かない人になった。」

そう答える良樹くんに、杉ちゃんも水穂さんも変な顔をした。どうも彼の家は、おじいさんが変な権力意識を持っているというか、それを止める相手もいないらしい。まあ確かに、親御さんが権力を持っていて子供が萎縮してしまった例はよく本などに載っているが、お年寄りが、権力を握っているという家庭は、なかなか難しいもので、なかなか文献にも取り上げられていない。

「そうなんだね。おじいちゃんが潔く引退してくれればいいのにね。最近はお年寄りが元気すぎてというか、力を持ちすぎちゃって、変な関係になってしまう家が、色々あリますよね。」

水穂さんが良樹くんにそう言ってくれた。

「それなら、水穂さん。彼にレッスンしてやってくれませんかね。小学校一年生でアラベスクを弾けるというのは結構腕があるんではないでしょうか?」

と弁蔵さんが言った。水穂さんは、わかりましたと言って、

「じゃあ、良樹くん、そこにあるピアノで、アラベスクを弾いてみてくれるかな?」

と、彼に言った。良樹くんはわかりましたと言って、水穂さんのグロトリアンのピアノを弾き始めた。なかなか良い演奏で、彼はきちんと演奏していた。これなら、ベートーベンのソナタなども弾けるかもしれない。

「ほう、なかなか行けるじゃないか。結構弾けるんだな。お上手じゃないか。それでは、ピアノの先生も、こんな優秀な生徒を持てて、鼻が高いな。」

と杉ちゃんが拍手を交えてそうきくと、

「でも、もうピアノはやめようって言われてるの。」

良樹くんは言った。

「なんで?」

「だって、おじいちゃんがピアノなんて何も役にたたないからやめさせろって、それより、学校の勉強で役にたてるほうが大切だって。パパもママもそれには逆らえないから、僕は、もうピアノやめることになっちゃう。」

「はあ。それなら、パパやママに言えないのか?もうちょっと続けさせてって。こんなにうまい演奏をしているのに、もったいないよ。それに続けていれば、中学校や高校で、合唱コンクールの伴奏だってできるぞ。」

杉ちゃんがそう言うが、良樹くんは小さくなって、

「だめだよ。」

と言った。

「そうなんですね。それでは、お祖父様に逆らえる人はだれもいないわけですね。それなら、ピアノを辞めさせられても仕方ないかもしれないですよね。誰かが、止めてくれる人がいればいいのですが、それを止める人もいらっしゃらないのですね。そういうことなら、大人の方に従ったほうが良いと思います。少なくとも平穏な生活をしていかないと、あなたも、あなたのご家族も持たないでしょうから。それをあなたが主張して、お祖父様に逆らうような事をしたら、お祖父様とお父様お母様の間に亀裂が生じてしまうでしょうし、親御さんがなにかの精神疾患などに繋がってしまうかもしれない。そういうことを避けるためにも、今回はとりあえずお祖父様に逆らわないほうが良いと思います。」

と、水穂さんが細い声で言った。でもその目は決して彼のことを責めるような言い方ではなく、良樹くんの事を思って、言っていることがわかる言い方だった。

「まあ、たしかにねえ。僕としてみれば、勉強とピアノは別にくだらないことではないように見えるんだが、お年寄りには、難しいかもしれないねえ。」

杉ちゃんも腕組みをしていった。良樹くんは、そうだねと小さい声で言った。

「ちょっとまってください。」

と、弁蔵さんが言った。

「確かに大人の人に逆らわないというのも大事なことなのかもしれませんが、それでも、彼にとっては、ピアノのレッスンというのが、大事なものだったんじゃないでしょうか。それを、大人が変な理屈にこじつけて、奪ってしまうのは可哀想だと思います。僕は、観光の仕事しているからわかるんですけど、学校も家庭も子供の居場所にならないという例は本当にたくさんあるんですよ。それのせいで、体に異常をきたして、奥大井に来ているお客さんも大勢いるんです。そうならないためにも、やりたいことは、やっていたほうが良いのではないでしょうか。無理やり大人に従うことで、成長するとかかっこよくなるみたいにいいますが、学校にも家庭にも居場所がない子は、本当に大勢いるんですよ。今の時代は家が全てではありません。そのためにピアノ教室があるのです。それを忘れないであげてください。」

「なるほどねえ。確かにそうだよな。弁蔵さんの言うとおりかもしれないな。ピアノ教室はある意味、ピアノを習うだけではなくて、子供さんが逃げる場所、詰まる所のおとぎの国になっているのかもしれない。確かにそういうものも必要だと思うからね。テレビゲームよりいいかもしれないぞ。それなら、続けさせて上げたほうがいいかもしれないね。」

杉ちゃんは、弁蔵さんの話に同調した。

「でも、そういう事は、他にもたくさんあると思います。すごい権力に屈しなければならない場面もあると思います。それに耐えて生き抜く事を学ぶことでもあるのではないでしょうか。それも大事なことでもあるのではないかと思うんです。」

水穂さんがそう言うと、

「水穂さん、あなたのような人がそのような事言ってどうするんですか?水穂さんは、いろんな人を癒やしてあげるのが仕事でしょ。そんな人が、子供さんの夢を潰すような発言をしてどうするんです?それより、もっと子供さんには夢を持たせてあげることが大事なのではないでしょうか?」

弁蔵さんは水穂さんに言った。

「いえ、そのような事はありません。」

水穂さんははっきり言った。

「大事なのは夢より自立です。音楽は高尚な身分の人だけに限られて演奏されるべきものであって、それ以外の身分の人間がそれにハマってしまうと、悲劇的な結末しか得られなくなることを知るいいきっかけだと思います。」

「そ、そうだけど、、、。」

杉ちゃんは、そう言うが、水穂さんの意志は変わらないようであった。

それと同時に、製鉄所の玄関の引き戸を叩く音がした。

「あれ、誰だろ?僕行ってみるわ。このままだと製鉄所の玄関がぶっ壊されてしまうような気がする。」

杉ちゃんが言って、彼は急いで玄関先に向かった。

「はいはい誰だよ。そんな叩き方したら、玄関の引き戸がぶっ壊れちまうよ。ちゃんと、会いに来た理由を話してくれ。」

と、杉ちゃんがでかい声でいって、玄関の引き戸を開けると、一人の中年の女性が、玄関の前に立っていた。彼女は、杉ちゃんの顔を見て、

「あの!ここに、佐藤良樹という、6歳の子供が来ているはずなんですが!」

と、慌ただしく言った。

「はい、今いますけど。なんでそれがわかったんだよ。」

杉ちゃんが言うと、

「彼に持たせている、子供用のスマートフォンの情報でわかりました。それで、急いでおいかけて来たんです。あの、良樹を返していただけないでしょうか。」

ということは、多分、良樹くんのお母さんだろうなと言うことがわかった。

「お前さん良樹くんのお母さん?」

杉ちゃんはそうきくと彼女はきっぱりとハイと言った。

「そうなんだね。じゃあ、悪いけどさ。あのおじいさんに、ピアノを続けるように言ってやってくれないかな。だって、小学生がドビュッシーのアラベスク第一番を弾くなんて、ちょっと、もったいないよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「良樹が、そうしたいといったのでしょうか?」

と、お母さんは言った。

「うーんそうかも知れないけどねえ。でも、大半はおまえさんたちが、おじいさんに勝てないことで、彼は、ピアノを無理やり辞めたさせられることになるんだぜ。これから、ピアノを使って、可能性が得られるよによ。もしかしたら、合唱コンクールの伴奏とかで、人気者に慣れるかもしれないじゃないか。それも、お前さんはカッコ悪いと思うか?」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「私が、やめさせるというか、そういうことではないわ。父の介護であの子のことまで見てられなくて、そうするしかないと思ったんです。」

お母さんは、小さい声で言った。

「うーんそうだねえ。でも、おじいさんよりも彼のほうが先があるってこともあるからねえ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「でも、父がそうしろというからには、それに逆らったら、もう生活していけなくなるから。」

ということは、多分、おじいさんが、生活資金を持っているのだろう。

「そうかも知れないけどね。偶には逆らってみるのも大事なんじゃないかな?」

と杉ちゃんが言うと、またアラベスク第一番が聞こえてきた。それと同時に、ここはもう少し弱くなど、指示を出している声も聞こえてくる。

「あなた達、もしかしたら、うちの子になにか誑かしているんじゃないでしょうね。」

お母さんは、そう言って、良樹!良樹!と言いながら、製鉄所の中に無理やり入った。杉ちゃんも車椅子で追いかけたが、追いつかなかった。お母さんは、すぐにピアノの音がする四畳半を突き止め、乱暴にふすまを開けた。中にいたのは、水穂さんと弁蔵さん、そして、ピアノを弾いていたのは良樹くんだった。

「まあ!そこにいるのは、右城さん。どうしてこんな事に。」

お母さんは驚いて言う。

「いやねえ。もうピアノを辞めることは決定的なので、その前に、最後のレッスンをしてやってくれと、僕が水穂さんに頼んだんですよ。中途半端にやめるよりも、こういうふうにちゃんと、決断を下してからやめるべきなんじゃないかと思ったんで。」

と弁蔵さんが言った。良樹くんは楽しそうに水穂さんと一緒にピアノを弾いていた。

「ちょっと待ってください。なんでこんな偉いピアニストの方とうちの子が一緒にやっているんでしょう?」

お母さんは混乱しているようである。

「まあ、そうかも知れないけどさ。それはある意味運というものでもあるんだぜ。それだって、ピアノをやっていく能力があるっていうことではないのか?」

追いついた杉ちゃんが呆れたように言った。

「水穂さんは悲劇的な結末を迎えるしかないと言っていましたが、僕は違うと思うんです。僕は、音楽を通して居場所を作ってもいいと思っているんです。だって、彼はどこにも居るところがないじゃないですか。お母様だってお祖父様の言いなりになっているだけでは、何も居場所を作ってあげられないでしょう?それなら、ピアノ教室行ってもいいと思うんですけどね。良樹くんが、本当に安心していられる場所があるのとないのとでは、全然感じ方も変わってくると思いますよ。」

弁蔵さんは、そうお母さんに言った。お母さんは水穂さんと良樹くんが、一生懸命ピアノを弾いているのをじっと見つめた。

「私も、父に、ピアノをやるのを禁止させられたときは、右城さんの演奏で現実逃避していたことがありました。まさか良樹にまで父が、手を出すとは思いませんでしたが、、、。」

「でも現に手を出している。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「それではいかんでしょ。お前さんのためにも、良樹くんのためにも。おじいさんに時代錯誤だって知らせてやれるのは、誰なんだろうね。外へ出ていくしか、居場所を作れないと知っているのは誰なんだろうな。」

「そうね、、、。」

お母さんは、水穂さんと一緒にアラベスク第一番を弾いている良樹くんを見た。とてもにこやかで楽しそうな笑顔だった。これを潰してしまうのは確かにいけないことのような気がした。お母さんはお母さん自身が、涙をこぼして泣いてしまった。きっとお母さんもおじいさんには逆らえないのでどうしたらいいのかわからなくなってしまったか、それとも、良樹くんの事を考え直してくれたのか、その真偽は不明だが、とにかく泣いてしまったのであった。

音楽はおとぎの国であった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おとぎの国 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る