第3話(お題:だんまり)

3 だんまり


 私の主人はまだ年若い女で、私は彼女の曽祖母から代々この家に受け継がれるお荷物だ。特段世話は必要ない……ただそこにいて緩やかな死を待っているだけの、首だけの吸血鬼だ。


「リナ」

 ある日、部屋の中を蚊が飛び回っているのに気づいた私は主の名を呼んだ。しかし、いつもならすぐに私の元へ寄ってくるはずの彼女は、手元の古い本に没頭しているらしく黙ったまま顔も上げない。

「蚊が飛んでいますよ」

「…………」

 リナがページをめくる音だけが響く室内で、蚊がついに私の顔のあたりまで飛んできた。私は口を開く以外にはせいぜい瞬きをするしかできない身なので、耳元で鳴る羽音にすくめる肩も振り払う腕もなくただ悲鳴を上げた。

「どうした!」

 驚いたようなリナの声。どうやら本当に気づいていなかったらしい。

「蚊です。わたくしの耳元で今……」

「なんだ蚊か。吸血鬼も蚊に食われんの?」

「さあ……わたくしは食われたことはありませんが」

 蚊やダニの類は、近くまでは来れど去っていくのが常だ。呪われた血が餌に適さないと本能的に悟るのだろう。

「まあでも万が一、不死身の蚊が爆誕したら困るからな。あんたの血を取り込んだら吸血鬼になるんだろ?」

 リナが死角へと引っ込んで行ったかと思うと、しゃこしゃこ、と何かを振るような音と共に再び現れた。

「息止めて目閉じろ」

「えっ」

 次の瞬間、しゅーっ、と殺虫剤が振りまかれる。異臭が部屋中に広がって、リナは「まあ確殺だろ」と笑った。

「加減のないことで……」

「夏に蚊取りを買い忘れたんだよ。普通の殺虫剤しかない」

 最近は夏が暑すぎて秋になってから出やがる、とぶつくさ言いながら、主はソファへと座り直してまた本に取り掛かった。

「何をお読みで?」

「吸血鬼の本。ばあちゃんの蔵書にあったのをもらった」

 ばあちゃん、と呼ばれたその人が、私の先代の主人だ。普段は特に関わるでもなく、ただ私を物置となっている離れに置いておいてくれた……亡くなる前にリナを呼びつけ、私を預けたのが彼女だった。

「ほう……キヨがそんなものを」

「かあさんが早死にしなかったら、これも受け継ぐのはもうちょっと遅かったろうけどな」

「わたくしとセットでしたか……」

「いわゆる取説だよなー」

 本に書かれていることがすべて当てはまるわけではないが、おおまかな把握はできるだろう。……本で読むまでもない知識だったか、彼女は出会った時から私のことを太陽光にあてぬよう細心の注意を払っている。

「ありがたいことではありますがね……わたくしとしては雑に扱っていただいた方が気楽です。何がしかのうっかりで死期が早まりそうですし」

「そうならないために読んでんだろうが」

 ふん、と鼻を鳴らしてリナが読書に戻る。私は厚い遮光カーテンの向こうにうっすら昇りかけているであろう陽の光に思いを馳せた。

 互いの存在を認識しつつも沈黙だけがそこにある時間。それが思いの外心地よく、やがて私はとろとろと眠りに落ちる。夢うつつに、柔らかな手が私を抱き上げて寝室に運ぶ気配を感じていた。

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