117話 第7幕 消えゆく朝霧の庭 ②

6月25日 6時32分


「あれ……」


 後ろから物憂げな声が聞こえた。振り返ると、朝靄の中から透明なビニール傘をさした洋介ようすけが歩いてきた所だった。


「参ったな、また警察に見つかった……」


 細めた瞳で空を見上げながら、洋介は苦笑しつつ長い髪をかきあげて息をついた。その姿にはどこか脱力したような気配が漂っていた。


「──すみません、部屋に戻ります」


「あ……ちょっと、ちょっと待って!」


 私は帰ろうとする洋介を咄嗟に呼び止める。彼が振り返り、目と目が合う。憂いを帯びた瞳がとても綺麗で、私は一瞬ドキンとした。


「あの、私、警察ではないし……えっと、大丈夫です」


 私は、何がどう大丈夫なの?!と心の中で自分に突っ込む。


 いやいや、ちょっと彼に聞きたいことがあるだけ。数日前に石祠せきしの前で花を供えていた彼と、昨日の彼との雰囲気の違いに何か違和感を覚えていたのだ。


「……あ、そう言えば名探偵さんでしたね?」


「いや名探偵かどうか……あの、確かに探偵は探偵なんですけど……」


「何か用?火龍かりゅうの件は先ほど話したでしょう?」


「いえ、洋介さん。あの、その、いつもあそこの石祠で花を添えているのかな?と思って」


 洋介は、突然そんなことを聞かれるとは思ってもみなかったらしく、一瞬目を見張る。しかし、すぐに何かを思い出したようにジッと私を見つめる。


 その美しい顔立ちと憂いを帯びた瞳。まるで映画のワンシーンを見ているような気がした。ユッキーが横に並べば大ヒット間違いなしだろう。


「石祠?……あぁ、キミはもしかしてあの時の……?」


 私はぎこちない笑みを作りコクコクコクと頷く。


「──お会いしていますよね、先日?」


「えっ、じゃ、あの日も何か事件で?」


「いえいえ、あの日は純粋に伝承会を見たくて」


「……じゃ、今回は偶然ここに?」


 洋介は少し興味を持ったのか、持っていた傘を閉じると私の向かいの椅子に腰かける。


 私の横の先客猫が今の音で起きたのか、ニャーンと鳴いて寝ぼけ眼で私たちを見回した後、外の様子を伺い始めた。


「いえ、洋介さんのお母様に呼ばれて……」


 洋介は更に驚いたようだ。


「母に呼ばれて?」


「はい、なぜかご指名を受けて」


「母の知り合いか何か?」


「いえいえいえ、あの日初めて会ったばかりで……」


 洋介は長い足を組み顎に片手を乗せる。自然なポーズがすべてサマになり絵になる人だ。


「ニャオ」


 横にいた先客が立ち上がり、洋介の膝にひらりと飛び乗った。洋介に頭を撫でられ、彼の膝で気持ち良さそうに喉をゴロゴロ言わせている。


「コイツはあの日の石祠にもいたヤツでね……」


「洋介さんに慣れているんですね、可愛い」


 そう言うと、その先客の猫は私の心を見透かすように目を細める。


「あの石祠に毎日通ってるからね、この辺りの猫はみんな顔見知りなんだ」


 洋介は先ほどとは別人のように柔らかく優しい眼差しで猫を撫でている。


「──毎日花も飾っているのですか?」


「あそこは先祖代々、大切に受け継いで来た我が家のルーツだからね……大事にしないとね」


「!!」


 あぁ、そうか。


 私は、昨日から彼に抱いていた違和感の正体がわかったと思った。


 この人は、家督の引き継ぎに無関心を装ってはいるが、本当は誰よりも神江島家かみえしまけを思っているのだ。


「洋介さん、失礼ですけど……なぜ引き継ぎの儀に立候補しないのですか?お母様も本音は洋介さんにと話してました」


 猫を撫でていた手が止まる。その目の色がたちまち曇った。


「僕にはその資格はないよ……そんな大層な人間じゃない。このご時世、長男だからとかはもう意味ないしね……」


 物憂げな瞳は大きな悲しみを湛えていた。何か…何か余程のことがあるのだろう。私は気になりつつも、これ以上この件に触れるのはやめようと口をつぐんだ。


 暫く沈黙が続く。雨音が静かに優しく響き渡り、朝靄が外界から切り離された異世界空間のように、私たちを包んでいた。


 次第に沈黙が息苦しくなり、会話を一生懸命探す。


「失礼ですが、洋介さん……」


 洋介は私の方を振り向く。


「なに?」


「洋介さんは、神江島の家族のことは好きですか?」


「え?」


 洋介は突然の質問に困ったように、人差し指でこめかみを軽く掻く。


「──何ですか、それ?」


「あの……昨日お会いした時には、家族のことは自分には関係ないって、凄く冷めた感じだったので……」


 洋介は苦笑した後、少し言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。


「あぁ、そう感じた?うちの母は昔からあんな感じでね。儀式だ決まりだって押し付けて来てね。俺はそう言うのは性に合わないんだ」


 龍子の威厳のある顔が思い浮かび、私は納得して大きく頷く。確かに龍子の息子や娘でいるのは大変そうだ。


乙龍おりゅうもそういう家から出て行きたいとしょっちゅうボヤいていた。雅治まさはるもそうだ……まぁ、あいつの場合は、自分を認めて貰いたいって感じかな」


 洋介はそう言うと、眉毛が微かに動きしばらく黙りこむ。


「………」


 なんとなくだが、彼は何かについて深く話すのを避けている印象を受ける。


 彼は軽く息を吐くと再び話しだす。心なしか少し口調が少し砕けた感じになった。


「──まぁ、そんな厳しい家だったから、子供の頃にこっそり漫画なんか買ってきた時なんか、隠すのが本当に大変でね」


 自ら話し出してくれたので、私はその話に興味津々で飛び付いた。


「漫画を隠さないといけないほど厳しかったの?」


 洋介は苦笑して頷き、悪戯いたずらっぽい目をする。


「で、どこに隠したと思う?」


「どこだろう?ベッドの下?とか」


 それを聞くと洋介はクスッと笑う。


「それって、違う漫画と間違えていない?」


「え? あっ……」


「まぁ、いいか……トイレの天井裏ね」


「えぇ?自分の部屋じゃないの?」


「母は部屋に隠したものは全部見つけるからね。良いアイディアでしょ?名探偵さん」


 洋介は得意げに言って笑った。その自然な笑顔に引き込まれ一緒に笑う。


「あはは、凄く必死だったのは伝わってきますね」


「まぁ、火龍だけは隠し場所を知ってたようだけどね」


「火龍さんが漫画の隠し場所を?」


「──あいつは頭が良過ぎるからね。俺と顔を合わせるたび、早く続き読みたいってニヤニヤしてたよ。油断ならないよね」


 洋介の声色や表情から、彼が心から家族のことを気にかけているのが伝わってきた。昨夜の乙龍もそうだ……素に戻れば誰だって、大切な人たちのことを思っている……私はそう信じたい。


「母は色々厳しかったけど、この名門って言われる神江島を一人で背負っている……」


 そして暫く沈黙して宙を見つめた後、話を続ける。


「今の兄妹はあんな感じで意見は違うけど、母や神江島を自分のやり方で支えようとしているのはわかる……そう、火龍もそうだった」


 洋介は大きくため息をつき、私を見る。


「家族を好きかどうかか……言葉で表すには難しい質問かな。キミの家族もそうなんじゃないの?」


「え、私の家族は……あの……」


 母は行方不明だし、父は物心ついた時にはいなかった。兄弟もおらず、アニやコマルママは育ての親と言う感じでもない。


 突然質問を返されて返答に困り、焦って手に持っていたミルクティーを一口飲む。


「ん?何?」


 私の声が聞こえなかったのか、洋介の憂いを帯びた綺麗な瞳が私の顔に近付く。


──あっ……顔ちかっ……


 気がつくと、彼の顔がその吐息を感じるほどの距離にあった。


 目と目が合い、お互いに暫しの沈黙。


 乳白色の朝靄の中、何処からか野鳥が羽ばたく音が聞こえた……


「──おやおやおや、お姫さま。名門の王子様と仲良く雨宿りかい?」


「………!!」


 聞き慣れた声を耳にしてハッと我に返った私は、口に含んでいたミルクティーを思いっきり噴き出した。

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