116話 第7幕 消えゆく朝霧の庭 ①

6月25日 06時24分


 夜中に上がったはずの雨が、今朝また降り出した。


 重い雲が空を覆い、絶え間ない雨音が辺りを包んでいた。朝靄あさもやが立ちこめた神社の境内は、しっとりと濡れた水色や紫色の紫陽花で彩られている。


 私は、神江島神社かみえしまじんじゃの境内にある東屋の中に一人座っていた。


 隣のベンチには、先客の三毛猫が心地よさそうに寝息を立てている。私も昨夜、寝るのが遅かったので一緒に寝たい気分だ……


 私は三毛猫のお腹が規則正しく上下するのを眺めながら、物思いにふけった。


 ──行方不明の母の一番の手掛かり、漆黒の白猫と関連があるかもしれない神江島神社に発生した今回の事件。


 神江島家の当主、龍子りゅうこ直々の指名で昨日からここにいるが、火龍かりゅうの死因も不明なまま、正直私はどうすれば良いのか分からない。龍子は本当に何を望んでいるのだろうか?


 私は鳥居の外の自販機で買った温かいミルクティーの缶を手に取る。


 自由になる片手でどうにかプルトップを開け、口に運ぶと、その温かさと甘さに少しだけ心が落ち着く。私はふぅっとため息をつき、これまでの出来事を整理してみる。


 スマホを取り出し、先日の青い曼荼羅まんだらの拝観の時に一緒に撮った神江島家の次女、火龍の写真を見つめた。


 母親に似た強い意思を感じさせる瞳、光に満ち溢れた人生を信じて疑わないその笑顔。まさか彼女がこの同じ日に人生の最期を迎えることになるとは、誰が想像できただろう。


 さらに乙龍おりゅうの婿、虎之助とらのすけから転送されてきた20枚ほどの誕生会の写真を1枚1枚眺める。おそらく、この会は母親の龍子が取り仕切っていたのだろう。その中で火龍は、こぼれんばかりの幸せな笑顔を見せていた。


「龍子さんも言っていたけど、この写真を見る限りでは、火龍さんの自殺はとても想像出来ないよ……」


 洋介ようすけ雅治まさはるの話では、火龍は古美術商を本業にしており、乙龍夫婦と組んで青い曼荼羅を売り払おうとしていたという。


 ただ、昨日の様子だと、虎之助はそのことを知らない感じだった。


 本当に火龍は、乙龍が次期当主になることを条件に、青い曼荼羅を売って儲けようとしていたのか?


 確かにあの双子の姉妹は一心同体なのだろう。どちらかが望めば、一緒に動くとは思う。


 しかし、腑に落ちないことが一つある。


「──国宝級の青い曼荼羅って、そんなに簡単に売れるものなの??」


 そして、火龍と対立していた雅治は、この神社をテーマパークにしたいと言っている。


「うーん、だけど……」


 この江ノ島えのしまにはすでに、江ノ島神社という全国区の観光スポットがある。江戸時代から賑わう、天女と五頭龍伝説の有名すぎる神社。


 それに比べて神江島神社は、規模の割には無名な神社だ。テーマパークの話も、雅治なりに神社を思ってのことなのだろうが……


──雅治の会社がどれほどの規模か知らないけどテーマパークなんて出来るのか?


 ただ、今の時点で確かなこと──それは、子供たちが成長した今もこうして誕生会を開いて、家族の絆を大切にしていた龍子の想いとは裏腹に、兄妹の仲は信じられないほどに悪いということだ。


 あの双子の姉妹はのぞいてだが……


「ふぅ、龍子さんも大変だ……」


 遠くで雷鳴が聞こえる。私はマユのことを思い出し、再びざわざわと不安な気持ちになってそっと辺りを見回す。


 あの異様なシルエットと猫のように冷たく光る彼女の眼差し。


 マユはいつも突然現れて、そのたびに私は怖い思いをしているが、今回は特に。……なんだろう?雰囲気がいつもと違う気がした。


──神江島家の人たちに心を許さないことね……あなたの青臭さが全てを台無しにするのよ──


 マユの忠告……神江島家に心を許すなというが、それってどういうこと?万莉まりの家の時みたいに深入りするなということなのか?


 だけど、私がこうしてミカの頼みを聞くのは、行方不明の母探しを手伝ってもらうのと引き換えという約束があるからだ。何よりこの神江島神社は、母が訪れていた谷中やなかの神社と関連があるから。


 私自身は、名門の神江島家に必要以上に深入りする気はまったくない。ないのだが……。


 私はスマホの待ち受けを見つめる。

 谷中の御猫神社おねこじんじゃで優しく笑う母の姿。


 目を閉じ、スマホを強く抱きしめる。


『このチカラがある限り、私は誰かを助けたい……』


 母の言葉だ。私は息を吐き、そして大きく首を振る。昨日の龍子の顔を思い浮かべる。彼女はあの時、まるで私の母のように、まっすぐに私を見つめていた。


 龍子は何故かはわからないが、私を信用してくれている。私に何かを期待してくれている。


──ルミさん、あなたのチカラが頼りです─


 そうだ、何をプレッシャーを感じて焦っているのだろう?場の空気に飲まれてる。しっかりしろ、私は私のチカラを信じなくちゃ。龍子のためにも今できることを……!


 警察の捜査ももちろん続いている。私の役割は?そうだ、ただ一つ、タイムリープ。ミカの言う通り、灰色の脳細胞を使う必要はない。


「火龍さんは…どうして亡くなったのだろう…??」


 おそらく、家族全員がなんとなく感じているだろうが──彼女の死因として病死や自殺はまず考えられない。


 それではやはり……


 私はミルクティーを口に運ぶと息を吐き、軽く髪をかき上げる。私がするべきこと。まずは……


 その時。


「あれ……」


 物憂げな声がすぐ後ろで聞こえた。

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