105話 第4幕 2人の想い、私の想い。③


6月21日 19時03分


万莉まりちゃんがお父さんからDVを受けていた……』


 私は思わず、万莉が着ている患者用のパジャマの襟元えりもとに手を伸ばす。万莉は少し警戒する素振りを見せるが、虚ろな目で笑顔を作る。


「万莉ちゃん、ごめんね。人に見せたくないよね。でも、少しでも力になりたいから。少しだけ許してね」


 軽く万莉のパジャマの襟を持ち上げると、着替えさせやすいように少し大きめになっているパジャマから、すぐに万莉の細い肩が露わになる。


「あっ……」


 彼女の肩についた傷跡を見て、私と陽奈ひなは眉をひそめる。肩甲骨けんこうこつの上部の方には、握りこぶし大の青紫色のアザがあった。


 アザは蝶々ちょうちょうのような八の字の形をしている。どれだけ叩かれたらこんなアザが出来るのだろう?


 陽奈が、万莉のパジャマをそっと元の位置に戻す。万莉はビクッと身体を震わせるが、人形のように微笑んでいる。


「──お父さんがあんなだったから、万莉のお母さんもきっとDVを受けてたと思う」


 陽奈もアザを見てショックを受けたのだろう、肩が微かに震えている。


「由莉ちゃんも……妹さんもそんな両親を見てきたから反抗的になったって言ってた。でも元々は仲の良い家族だったって…万莉はその頃を知ってるから余計に辛かったと思う……それなのに、こんなの本当に酷いよ……」


 陽奈は肩だけでなく声も震えていた。


「万莉は私たちグループの中ではいつも控えめなんだけど、誰かが落ち込んだりすると、一生懸命励ましてくれて……皆んな万莉の人懐っこい笑顔に助けられていた。万莉…本当は自分が一番大変だったのに」


 私は陽奈を片手で優しく抱きしめて、大きく息を吐いた。


「陽奈ちゃん、大丈夫だよ。大丈夫。万莉ちゃんも徐々に回復していくから、様子を見ようね。私から警察に連絡して、陽奈ちゃんたちがお見舞いに来られるように言っておくから……」


 陽奈は私の方に向き直り、すすり泣きながら言った。


「さっき、万莉の叔母さんと話したの。万莉、もうすぐ叔母さんの家に引き取られるんだって。叔母さんの家って東京の半蔵門はんぞうもんの方なんだって……鎌倉かまくらからちょっと遠いよね──」


 陽奈がついに声を上げて泣き出す。私はこれ以上何を言えば良いのか分からなかった。


 その時、万莉がぽつんと呟いた。


「──きょうは」


 私たちは同時に万莉の方を振り向く。


「万莉ちゃん、どうしたの?今日?」


 万莉は遠くを見るような眼差しで微笑みながら繰り返す。


「──きょうは……マユちゃんこないの?」


 その名前にドキンと心臓が波打ち、私は万莉に向き直った。


「万莉ちゃん……マユちゃんを知ってるの?」


 万莉ははかなげに微笑み小さく頷く。


「マユちゃんはトモダチだもの……やさしい……おネエさん」


 陽奈も万莉に近づき問いかける。


「万莉、マユちゃんって誰?聞いた事ないよ……」


 万莉はその言葉に、怯えるように大きな目を一段と見開き、私たちを交互に見ながら身体を震わせた。


 その時、部屋の外からノックする音が聞こえた。


「──そろそろ時間だよ、済まないね」


 ミカの声にも、陽奈は万莉の手を握ったまま動こうとしない。そんな彼女を私は優しく促し、後ろ髪をひかれながらも万莉の部屋を後にする。


「万莉ちゃん……また来るからね」


 ドアを閉めようと部屋の中を振り返った時──椅子に座っている万莉が静かに泣いているような気がした。


 何ともやり切れず、私の心が再び無力感でいっぱいになる。


 陽奈は部屋を出ると、しばらく俯いたまま黙って立ちつくしていたが、やがて顔を上げる。


「ルミさん、ありがとうございました……万莉に会えただけでも良かった……」


 静かな病院の廊下に、微かに震える陽奈の言葉が響きわたった。


 私たちは今後のためにメッセージの交換をする。


「……じゃあ」


「……うん、気をつけてね。またね」


 陽奈は何度も振り返りながら、ゆっくりと階段を降りていった。


 彼女の背中が見えなくなるまで見送って、私は深く息をついた。


──万莉の叔母、純子じゅんこの想い。そして友人の陽奈の想い。


 2人の心に想いを馳せ、そして私は行方不明になった母の言葉を思い出す。


「このチカラがある限り、私は誰かを助けたい」


 その言葉は、そのまま私の想いでもあった。でも──うん。今は、自分のできることをするしかない。


「さて、私たちも帰るとしようじゃないか」


 私の様子を腕を組んで眺めていたミカは、静かにそう言うと、私に背を向け歩き出す。


 エレベーターに乗り込むと、無機質な金属の壁に囲まれた空間が私たちを包み込む。その圧迫感から逃れるように、私は無言で自分の思いに沈んでいた。


 1階に到着し、ドアが開いた瞬間、オレンジ色の夕陽の光が、エレベーターの中に差し込んできた。


 目を細めて光の方向を眺めると、そこにはユッキーが私の荷物を両手に持って立っていた。


 夕日がその輪郭りんかくを黄金色に縁取り、まるで女神のオーラのように彼女を包み込んでいた。


 ユッキーは、私の顔を見るといつもの温かく神々しい笑みを顔いっぱいに浮かべる。


「ルミちゃん、今日はお疲れ様、疲れたよね……もう帰ろうか?」


「ユッキー……」


 私は無意識のうちに彼女に駆け寄り、力一杯に抱きついていた。ユッキーの温かさに包まれて、この瞬間だけは重い現実から逃れることができた。


 飄々ひょうひょうとしたミカの声が背後から聞こえる。


「二人とも東京まで乗って行くかい?ロマンスカーより乗り心地は良くないけど、爆睡はできるはずさ」


 彼女の提案に、ユッキーと私は顔を見合わせ、笑いながら頷いて歩きだした。



──第5幕「託された願いの重さ」へ続く。


――あとがき――

ここまで読んでいただきありがとうございます。一言でも物語のコメントをして頂けると嬉しい限りです。また★でのご評価を頂けたら創作のモチベーションも上がり嬉しく思います♪今後ともどうぞ宜しくお願いします。

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