閑話休題5 〜ピンクハートにて〜


──その昔、かの湘南しょうなんの地には、戦国時代を彷彿ほうふつとさせるほどの激烈な勢力争いの時代があった。


 小さな暴走族の集団が、領土を巡り日夜、血みどろの抗争を繰り広げていた。毎夜、エンジン音と鋭い金属音が闇にとどろき、街は恐怖と暴力におののいていた。


 その混沌とした時代に、恐れを知らぬ3人のリーダーが台頭する。


 彼らの名は恐怖と共に広まり、無法地帯となっていた湘南に一時的な均衡状態を与える。皮肉にも、その恐怖の均衡が湘南に一瞬の平穏を与えた。


 その3人のうちの1人が、ヒデという名の男である。その鋭い眼光には常に怒りの火種がくすぶっており、一旦その炎が燃え盛ろうものなら周囲はたちまち破壊され、血の雨が3日3晩降り続いた。


 いつしか人は彼をこう呼んだ。狂犬のヒデ。その名に相応しい狂気と暴力の象徴であり、彼の前に立つ者は無慈悲な暴力の犠牲者となった。


 そして忠実な2人の側近、銀次ぎんじ誠二せいじもまた、ヒデと共に血路を切り開く凶悪な戦士であり、湘南の地に恐怖を刻み込んでいた。


 ──これは、その狂犬ヒデの第二の人生の物語である。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


5月15日 19時55分


 稲村ヶ崎いなむらがさきの小さな商店街の奥にひっそりと佇むバー、オトナの社交場ピンクハート。


 赤いベルベットのカーテンとクリスタルのシャンデリアがひときわ目を引く店内には、ロココ調のきらびやかな装飾がこれでもかと施されていた。


 店内のカウンターには、色鮮やかな酒の瓶がずらりと並び、清らかな讃美歌調のBGMがおごそかに流れていた。


 開店からすでに1時間を過ぎているが、「夢のひと時Bar PINK HEART」とポップ調に書かれた店の扉は今日はまだ1度も開かれていない。


 この店のママ、ヒデ──通称ヒデ子ママは店の時計を見つめ、プルンと瑞々しいその唇から可憐にため息を洩らした。薔薇を模した真紅のヒラヒラドレスをまとったふくよかな身体を切なげにくねらせて声を上げる。


「もう、ちょっと!信じられない!最近ヒマ過ぎじゃないの?お客はどこに行っちゃったのよ!近くで祭りでもあるのかしら?」


「ダメよ、ひーたん。ため息を吐くと幸せと若さが逃げていくのよ。昔、お爺ちゃんとかに教わらなかったのぉ?」


 誠二──通称セイコはスマホでしきりに自撮りをしながら、今日のロイヤルブルーのドレスとメイクの仕上がりをチェックするのに余念がない。


 側から見るその姿は、銀幕女優を思わせるほどまばゆく美しく、完璧だ……ただ一つ、その野太い声を除けば。


 ヒデ子はセイコの華やかな姿を上目遣いで眺め、下唇を悔しそうに噛み締めた。


「何よそれ?暇なものは暇なのよ!ため息だって自然に出るのよ!自撮りとかしている暇があったら、客引きでもしてきなさいよ。ホント、ムカつくほど可愛いんだから!!」


「キャっ、嬉しい♩でも、お客が少ないのは祭りのせいじゃなくて、この先の二股で起こったキモくて怖い惨殺事件のせいなのよ。これだけ警察がウロついていたら、浮かれてこのお店に入ろうとか普通思わないわよぉ」


「じゃ、そのウロついているポリ公でもなんでも良いからだまくらかして連れて来なさいよ!!自慢のその身体をクネクネ動かして、お客を引っ張ってくるのよ!!」


 ヒデ子はおもむろに立ち上がり、その豊満なボディをプルプル震わせてみせる。


「嫌よ、ポリとは相性悪いの。それにあの二股の道はこの時間だと電灯もろくにないし怖いわよ。セイコが怖がり屋さんなの知ってるでしょ?」


「キィ!また可愛い子ぶっちゃって、ぎにでも襲われれば良いのよ!」


「追い剥ぎとか何時代よぉ!そのヒラヒラのデメキンドレスなら追い剥ぎが出ても相手が逃げるわよ。ひーたんが行きなさいよぉ!」


「もぉ!ムカつくわね!誰がデメキンよ!!これは特注の真紅の薔薇の花びらドレスなのよ!」


「デメキンでも薔薇でもなんでも良いわよぉ!とにかく、あの二股はキモくて怖いの!昔からあそこは稲村ヶ崎の心霊スポットでしょ?変なものが見えたり、家が光ったり。余程の物好きじゃないと行けないわよ!」


「確かに、あそこで惨殺事件とかありあえないわよね。これ以上関わりたくないわ……触らぬ神になんとやらね。あのアバズレ刑事ミカと一緒ね、かかわるとロクなことないわ」


 ヒデ子はひと息に言うと呼吸をととのえ、物憂げに首を振って見せる。


「そう言えば、ひーたん。昨日ミカから何だかメッセージ来てたでしょ?お返事したぁ?」


「するわけないわよ!確かにあの惨殺事件の容疑者までは調べたけどそれ以上は、無視よ無視!!取引はしたけど、心までは売らないわ」


「さすがはひーたんだわぁ。人の弱みにつけ込んで奴隷のように働かせるなんてミカは鬼畜よね。でもどんな要件だったのかしらね?」


 ヒデ子はセイコに向かって顔をしかめ、思いきり舌を出す。


「よくわかんないけど、鎌倉かまくらの病院の屋上に来いとか言ってたわ。もぉ何様のつもりよ、生意気でしょ?ガン無視してそのままにしてやったの」


「きゃー、さすがね。凄く迷惑したでしょうね、ミカの困った顔が目に浮かぶようだわぁ」


「そうよ!ザマアミロだわ。気持ちが良すぎて、不眠症の私が昨日は爆睡よ」


 その時、2人のやり取りを背中で聞きながら熱い吐息を繰り返し、黙々とヒンズースクワットをしていた銀次ぎんじ──通称ギンコが口を開いた。


「──ミカの奴隷と言えば……あの二股の事件の容疑者のアリバイ探しでこの店に来たルミさんはお元気ですかねぇ」


 レースで縁取られたパステルイエローのスカートをひるがえし、凛々しい顔でギンコが振り向く。


 ヒデ子ママはふと遠い目をして可愛らしく頬に手をあて、首を傾げる。


「あの赤いリュック背負った野蛮っ子ね、さてどうかしら?ミカの依頼とは言え、あの二股の家にかかわるなんて信じられないけど」


「そうよねぇ。ルミたんバタバタして可愛い子だけど、あの家はヤバいわよ。怪我とかしてなければ良いけど」


簀巻すまきにしようとしたけど、レジェンド・ノンタンの親友だとは思わなかったわよね。早まって海に落としてたらとか思うと、今でもドキドキしちゃうわよ」


 ヒデ子はこの店にルミが来た際、うっかりミカへの暴言を吐いた証拠隠滅のため、ルミを簀巻きにしようしたのだ。そのことが、崇拝するレジェンド・ノンタンに知られたらと思うと今も夜も眠れないらしい。


「そう言えば今朝早く、容疑者の1人だった、あのキモい菊池雄一きくちゆういちを店の前で見かけたわ。アイツは犯人じゃなかったのねぇ」


 ヒデ子たちの話を聞きながら艶やかなブロンドヘアのウィッグを着け終えると、ギンコは作り置きのプロテインを一気に飲み干す。


「そう言えば容疑者だった神崎かんざきも駅で見かけましたし、ヒデさんの宿敵が逮捕されなかったのは残念至極っす」


 ギンコの言葉にヒデ子は口元をヒクヒクさせる。


「──宿敵ってなによぉ、昔のことよ。今は神崎はおいぼれジジィじゃないの──まぁ、つまりは容疑者だった2人ともキモくてムカつくのにシロなのね。世の中思い通りにいかないわね……切ないわ……」


「神崎と言えば、ヒデさん。俺はあの頃が懐かしいっすよ。ヒデさんと神崎、そして龍子りゅうこでこの辺りの覇権をかけてしのぎを削った頃を……俺たちの青春、ヒデさんの勇姿最高でした……」


 銀次、いやギンコは遠い目をしながら無骨な指をボキボキと鳴らす。


 そこにヒデ子のパンチが飛んで来た。


「もぉ!!私はヒデ子よぉ!!何度言えばわかるのよ!このスカポンタン!!脳筋のおバカさぁん!!」


 ギンコの厚い胸板にパコパコとヒデ子のパンチが当たっては、むなしく跳ね返る。


「すいやせん!すいやせん!!ヒデさん、つい懐かしくて……」


「ヒデ子だってーの!!それに私の前で、もう一度あの憎ったらしい神江島かみえしまの名前を言ってごらんなさい!!極上の簀巻き体験をさせてあげるんだから!!」


 ヒデ子にとって余程トラウマなのか、つぶらな瞳からたちまち大粒の涙が溢れ出す。必死に詫びるギンコを眺めながら、セイコがため息をついてポツリと呟く。


「ギンコはおバカねぇ、ひーたんの前でその名前は禁句よ。何しろ龍子には一度も勝てない以前に、いっつも秒殺だったんだから……ブザマだったわよねぇ」


「セイコ!ブザマって言ったわね!アンタの立てた作戦で秒殺され続けたのよ!そもそもあんな化け物相手に!!私がブザマならアンタなんかぁ!アンタなんかぁ!!」


 今度はパコパコとセイコの身体を叩きながら、ヒデ子はボリューミーな身体をブルブルと震わせた。


「ハイハイ、ひーたん私が悪かったわよ。涙を止めないと、せっかくのメイクがドロドロでまるでパンダよ」


──ヒック、ヒック


 まるで子供のようにしゃくりあげるヒデ子の背中をセイコがポンポンと優しく叩く。


「大丈夫よぉ、ひーたんが最強なんだから♩今度龍子に会ったら、コテンパンよね」


「そうよ、そうなの。龍子なんか……龍子なんか」


「ハイハイ、パンダみたいなひーたんが1番」


「そうなの、アタシが1番……パンダって誰よぉ」


 片手でその背中をポンポンと叩きながら、セイコはもう片方の手でヒデ子の目の前にチラシを広げて見せる。


「じゃ、この神江島のイベントに殴り込みに行かない?ひーたんがブザマじゃないってことを証明出来るチャンスよ♩」


 チラシにはこう書かれていた。


江島御猫伝説えのしまおねこでんせつの伝承会と御猫曼荼羅拝観日おねこまんだらはいかんび  6月21日13時30分から】


 司会は神崎敬三かんざきけいぞう、語り部は神江島神社かみえしまじんじゃの宮司、神江島龍子かみえしまりゅうこ


 その文字を見るや否や、涙でアイメイクの流れ落ちた瞳がカッと開かれ、プルプルの唇から覗く歯がガチガチと音を立て始めた。


「嫌ぁ!!龍子と神崎が手を組んで私を!あ、あの、鎌倉高校かまくらこうこう前のコトをいまだに恨んでいるのね!!」


 薔薇の花びらを模したドレスのヒラヒラが小刻みに揺れてバサバサと音を立てる。ヒデ子のただならぬ醜態に、ギンコもセイコもやや引き気味だ。


「ヒデさん!!」


「ひーたん……ブザマねぇ。化粧もハゲて、なんかの動物みたいよ」


 その時。


 扉の向こうで微かに人の気配がした。誰かが店の前で立ち止まっているようだ。3人は一瞬、顔を見合わせる。


「あら、お客様じゃない?」


 セイコがヒデ子を見る。


 ヒデ子はぱっと顔を輝かせてセイコとギンコに目配せした。


 ギンコは無言でうなずき、セイコはスマホをポケットにしまい、手鏡でメイクをチェックする。


「夢のひと時Bar PINK HEART」とポップ調に書かれたパステルピンクの扉がしずしずと開かれ、教会の鐘のような荘厳な音色が鳴り響く。


 ヒデ子はパンダメイクのとびきりの営業スマイルでお客を出迎える。


「お客さまぁ、いらっしゃいまっせー♩」


「ようこそぉ、オトナの社交場ピンクハートへー♪」


 ギンコとセイコもバレリーナ張りのポーズでヒデ子の両脇に華を添え、華麗なハモりで出迎える。


「フフン……」


 ピンクの扉からそのお客が現れた瞬間、3人は一斉に目を見開く。


「!!!」


 お客はスタイリッシュに腕を組み、キレのある笑みを見せた。


「おやおや、3人とも元気そうじゃないか……嬉しい限りだねぇ」


 ヒデ子の営業スマイルが引きつり、そしてそのまま凍りついた。セイコは思わず手鏡を落とし、ギンコは立ったまま固まってしまう。


「いやぁ!!」


「──私との契約を破って、呑気に営業しているとは、さすがは狂犬ヒデじゃないか。さて、どうしてやろうかねぇ」


「やだぁぁぁ!!」


 稲村ヶ崎の小さな商店街の奥にひっそりと佇む、オトナの社交場ピンクハート。そのパステルピンクの可愛い扉が、ギィィーー、バタンと絶望的な音を立てて閉まった。


 その昔、湘南の地を震わせた伝説のリーダーの1人、狂犬ヒデ。第2の物語は続く──たぶん……。

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