84話 第十三幕 対峙 ④


5月14日 19時20分 


 私は屋上の中央までゆっくりと歩いていく。


 夜風が冷たく頬を撫で、心臓の鼓動が耳元で大きく響く。緊張で手汗がじっとりと滲み、指先が震えているのが分かる。


──ミカさん…!警察の人たち…!お願い早く来て!!──


 目だけでそっと辺りを見回すと、屋上は周囲を鉄のフェンスに囲まれ、いくつかの古びたベンチが薄暗い光に照らされている。


 私はやむなく屋上の中央まで来ると、松本の方を振り向く。よくある、サスペンスドラマのクライマックスでカッコ良く対峙する二人の構図である。


 ただ、私はこの先の手を全く考えていない。


 ──さぁ、どうしよう?!


 その時、再び看護師イナベの院内放送が流れる。


「ミカ様、703号室のルミ様がお待ちです。至急同階のナースセンターまでお越し下さい」


 その放送を聞き、私は天を仰ぐ。


 あぁ、もう。全然だめじゃない……やっぱり大雑把おおざっぱで穴だらけの作戦だ……私は力無くボヤいた。


「──今日は何て日なの……」


 藤沢にタイムリープして大火事に巻き込まれ、何とか助かったと思ったら、今度は殺し屋と対峙して一世一代の大ピンチだ。


 ふと正面に松本の視線を感じ、全身が冷たくなる。


「あは……」


 暫くの沈黙の後、どうすれば良いのかわからなくなり、松本に対して意味不明な笑顔を見せた。


 松本は無表情のまま軽く首を傾げる。やがて、冷ややかなしわがれ声が響き渡った。


「──ルミさん」


「はい……」


「失礼ですが、昼間の服装と違いますね。入院されている方の服ではない……声も心なしか違いますね。明らかに変です。さて?」


 一瞬沈黙し、次の瞬間、彼は人が変わったように怒声を上げる。


「何者だぁーお前は?!もう少しで万莉も目覚める所なんだよ!」


 その刹那、松本は突いていた杖を左手で掴むと、右手で先端を一気に引き抜いた。


「!!」


 えぇ、仕込みナイフ!?聞いてない!!


 その鋭利な刃が月明かりにきらめく様を見て、さぁっと血の気が引いた。


「邪魔する奴はな、みんなあの家族と一緒だ!」


 狂気じみたその声、獲物を狙う猛獣のように冷酷で、歪んだ目。松本は次の瞬間、杖をぎ払う。


「ひゃぁ!」


 私はぎりぎりのところで体をかわした。その勢いで、後ろに転がる。アスファルトの、冷たく粗い感触が肌に伝わる。


 危ないところだった!!


──って……痛っ!え?!


 左腕に鋭い痛みが走る。見るとパーカーを通して赤い血が滲み出ている。傷口が深いのか、その痛みは深刻だった。


 鉄の匂いが鼻をつき、目が回りそうになる。


 そんな、避けたはずなのに……!!


「やだ……どうして」


 身を起こしながら思わず漏れた私の声は、情け無いほどに震えていた。


 また来る……あんな計算されたみたいな速い動き、予測できないよ……!次は避けられるだろうか──?!


 松本は、舌打ちをしながら杖を構え直す。その構えは、素人とは思えない。彼は再び間合いを詰め、今度はさらに猛烈に攻撃してきた。


 私は必死に避けようとするが、焦りで再びバランスを崩し、硬いアスファルトに倒れ込んだ。松本の鋭いナイフが耳元をかすめ、風を切る音が耳に届く。


「ひゃぁぁ!!」


 擦りむいた膝を気にする暇もなく屋上の端にあるフェンスにしがみつき、必死に起き上がると、松本の猛攻をかわし続ける。


 彼のナイフが手すりに当たる度に、耳障りな金属音が鳴り響き火花が飛び散る。以前、千駄木せんだぎ公園で中山浩司なかやまこうじに追い詰められた時の場面が脳裏をよぎる。


「やだ!!やめて!お願い!」


 叫びながらも、私は必死に逃げ場を探す。


 ふと古びたベンチが目に入り、私はそれを盾にしようと走り寄る。ベンチの背もたれを掴んで引っ張り、松本と自分の間に置く。


 しかし、松本のナイフがベンチの木材に突き刺さり、木屑が飛び散る。


「きゃぁぁ!!やだやだ!!」


「逃がすかぁぁ!」


 松本がナイフを引き抜き、再び攻撃を仕掛けてくる。私はベンチを押し倒し、その背後に身を隠そうとするが……


「あぁ!!イタタタ!!」


 ふくらはぎに激痛が走る。筋肉がけいれんし、立ち上がることができない。


──こんな時に、腓返こむらがえりって!!


「そんな……」


 松本は肩で息をしながら私の上に立ちはだかり、その鋭利なナイフを私に向けた。そのぽっかりと空いた空洞のような目には、私を突き刺すことへの躊躇ためらいなど微塵みじんもなかった。


「──俺とした事がこんな小娘に……」


 松本は冷ややかに笑った。


「次で終わりだ」


 絶体絶命だ──松本の悪魔のような形相が月明かりに照らされ、彼のナイフが私の恐怖に震える顔を映し出す。


 ──ミカさん、どうしたの?早く助けに……


「安心しろ、すぐに万莉もあの世に送ってやるさ──あの家のさえわかれば、万莉も用無しだ!!」


「あの家の、隠し扉──?!」


 松本が仕込みナイフを私に向かって大きく薙ぎ払おうとした。


──助けて…アニ!ユッキー!!お母さん!!


 その時。


「松本貴之ぃ!!!」


 聞き覚えのある声が私の背後から響き渡った。松本はナイフを構えたまま、反射的にそちらへ顔を向ける。


 ミカさん?いや違う……この声は!


 私も勢いで振り向いてしまった。


「ルミ!振り向かないで!!」


「え?」


 その声に、咄嗟に目を瞑ろうとする。


 そして──そして、猫の鳴き声。


 その刹那、視界の隅に写ったのは、満月に猫のシルエットだった……


 目を閉じた暗闇の中、松本の断末魔の叫びが聞こえた。


「あぁぁぁ? な、なぜコイツが?──私は…騙……されて……?」


 私の後ろで何かがズドンと倒れる大きな音がした。私は首を元に戻し、ゆっくり目を見開く。


 そこには、目を見開き恐怖で引きったような形相の松本が倒れていた。


「……」


 私は暫く、その姿を呆然と眺めていた。


 夜の静寂が戻り、風の音だけが耳に残る。松本の息絶えた姿を、冷たい月光が照らしていた。


 突然、ガチャンと扉が開く音。


「何だい、やっつけちまったのかい?」


 その声に、ハッとして再び扉の方に振り向くと、ミカが拳銃を片手に駆け寄って来た。


──遅いよミカさん……


 その声ももはや声にならない。彼女の真上に満月が輝いている。


「あれは?漆黒の……白猫?」


 私は呟いた。しかし、その姿はすでに忽然こつぜんと消えていた。


 私はその場にがっくりと座り込み、血で染まった左腕を押さえながら、喘ぐような呼吸を繰り返した。


──あの家の……隠し扉?


 松本貴之の最期の言葉が頭の中でリフレインしていた。



── 第十四幕「残された課題」へ続く。 

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