83話 第十三幕 対峙 ③

5月14日 19時11分 < 元の時間軸から−2日 >


 屋上に続く廊下の十字路に差しかかったその時。


「え?」


 視界の隅を、ふと見覚えのある入院着が横切った。右手の通路の先だ。目を向けると──


 周囲をキョロキョロと見回しながら、頼りなく歩く女性の後ろ姿。


「!!」


 薄暗い照明の中でも見間違えようがない、それは間違いなく、今の時間軸の私だった。


 ナースセンターに行くはずが、1階降りて迷子になったのだろうか?


 ──何てことなの!今の時間軸の私がこんな近くにいるなんて……


 再び叫びそうになったが、それどころではないと気付く。松本に私が2人いるのを見られてはまずい。


 私は松本を振り返り、オーバーアクションしながらひきつった笑顔を作った。


「き、今日は……えっと、奥様の純子さんはどうされたのですか?」


 松本の眉毛がぴくりと動く。


「あぁ、看病疲れが出てね、一度家に帰って休んでいます……」


 そう言うと、彼も右手にいる人の気配に気づいたのか、そちらの方を振り返ろうとした。


 いけない!!私はこちらに注意を引こうとさらにオーバーアクションをして大きく手をふる。


「えぇ、お優しいですねぇ!!奥さんとはオシドリ夫婦♩って、聞いているけど、ホントなんですねぇ」


 その声に彼は顔をこちらに戻す。あぁ、こんな所で騒いでいたら、もう一人の私がこちらに気づいちゃうよ……!!とりあえず、先のエレベーターまで誘導しないと。


「あ、エレベーター上って来ますよぉ……!早く屋上に行きましょう」


 上擦った声で言って、エレベータを指差し彼を先にいかせ、十字路から離れさせた。背中にはびっしょりと冷たい汗をかいている。


──ミカさん、あの私を早く捕まえてよ……!生きた心地がしないよ……怖がりだけど好奇心旺盛な私のことだから、何か気配を感じたらこっちに来るよ──


「……」


 ふと、嫌な予感がして右手の先を角から覗いてみた。


「!!」


 嫌な予感が的中した……怖さより好奇心が勝ってしまったようだ。松本の姿を見つけたのか知らないが、この時間軸の私がこちらに向かってきていた。ヒタヒタと足音が近づいてくる。


──このままでは鉢合わせしてしまう!時空の狭間に飛ばされるなんて絶対にイヤ──!


「……どうしました?」


「ひゃっ!!」


 背後から松本の低い声がした。不審気な彼の視線が鋭く突き刺さり、私は咄嗟とっさに出任せを言った。


「ちょ、ちょっと気分が悪くなっちゃって……」


「それなら無理せずに病室に戻った方がいいのでは?」


「いえ……いえいえ、大丈夫です!少し外の空気を吸えば良くなると思いますから……あ、エレベーターもうすぐくるみたいですよ!」


 私は松本を強制的に振り向かせて、引き続きエレベーターの方へ促す。先ほどの十字路の通路からのヒタヒタという足音が大きくなってきた。


 エレベーターのボタンをバンバンバンと全力で連打するが、さっきのホテルと同じくロビー階で止まったままで動きそうもない。


──ええ……どうしよう?これじゃ追いつかれてしまう──!!


 十字路の方を見ると、その角に黒い影が少しずつ伸びてきた──


 焦って辺りを見回すと、これも先ほどのホテルと同じく非常階段のドアがあった。


 しめた、ここから屋上に!!と思ったが、松本は杖をついている。


 ──やだやだ、本当に!どうすれば??


「階段で行きましょうか?」


「え?」


 その意外な言葉に、私は咄嗟に松本を振り返った。


「大丈夫ですよ、看病で座ってばかりだから少しは運動が必要ですし。何やらルミさんも急いでいるんでしょう……??」


 そう言うと彼はかすかに笑って見せる。しかし、その空洞のような目の奥には不気味な光が宿っていた。再び私の背中に悪寒が走る。


 さらに追い討ちをかけるように、松本の背中越しにもう一人の私のシルエットが近付いてきた──


──もう、本当にヤバい!!


「そ、そうですね、じゃあ階段で行きましょうか……!」


 私は顔を見せないように俯きながら非常階段の扉を開け、松本をその中へと促す。


 薄暗い踊り場には古い蛍光灯が点滅していた。光が不規則に明滅し、コンクリートの壁に私たちの影が揺れ動く。


 ジリジリとした蛍光灯の音に焦燥感がいっそう募る。


──あと2階分、ここを上れば屋上だ──!


 松本は杖を使いながら、私の先をゆっくりと上っていく。まさかと思うが、この時間軸の私はまだ追いかけてくるのだろうか?


──お願いだから、本当に来ないで──!!


 私は心の中でもう一人の私に向かって念じながら、松本に合わせて一段一段慎重に上っていく。


 背後から迫る足音が聞こえる気がして、その度に何度も振り返る。


 やがて、階段を上がり切って屋上のドアの前に立つ。


──あと少し。ここを開ければ……


 松本がドアのノブに手をかけた。


「……あれ?ドアが壊れているのでしょうか?」


 松本は首を捻りガシャガシャとドアノブを動かしている。その顔には何故か薄笑いが浮かんでいるように見える…


「えぇ、ドアが開かない……?!」


「まぁ、古い病院ですからね、こういうこともあるかもしれません。仕方ないですね、戻りましょうか?」


 松本は斜め上から私の顔を覗き込む。その顔からは、先ほどまでのにこやかさは完全に消えている。


 薄暗い蛍光灯に照らされた、死人のような顔色と深く掘られたしわ、そしてぽっかりと空いた空洞のような目。私は怖気おぞけをふるい、思わず一歩後ずさる。


 ──まさかこの男は、すでに私の意図を知っているの──?


 さらに、よく耳を澄ますと階段を上ってくる足音が響いていた……


「!!」


──過去の私?やっぱりついてきたの……??


 咄嗟に下の階の踊り場に視線を移す。蛍光灯の光が不気味に点滅する中、ヒタヒタと階段を上ってくる影が浮かび上がってきた。


 わぁ、絶対絶命だ!!冷静になれと言われても、この状況は!!


 松本は私のパニックに気づいているのかいないのか、ジッと私の姿を観察している。私の心臓は今にも破裂しそうだった。


──鉢合わせすれば私は時空の狭間だ!!それだけは!


 焦りの中でもう一度、下の階の踊り場を覗く。階段を上ってきた人影が、その気配に気づいたのか……ゆっくりと顔を上げ始めた。


 その姿形はやはり、間違いなく私。顔が引き攣るのが自分でもわかった。


──もうやだ、ミカさん!!助けて!!!──


 その時。


「あら!アナタ!!こんな所にいたのね!!放送聞かなかったの?まだ体調が万全じゃないのに!!」


 ビクッと身体が震えた。どこかで聞いた甲高い声が下の階の踊り場に響きわたる。ええと、この声は……


 そうだ。看護師のイナベだ!


 下の階をもう一度覗くと、この時間軸の私がイナベに強制的に腕を組まれ、力強く引っ張られて行くのが見えた。彼女は抵抗するすべもなくなすがままに連れ去られ、やがて見えなくなった──


──あぁぁ、良かった。


 私は思わずへなへなとその場にしゃがみこむ。


『イナベさん、ありがとう……!!』


 その時、


 チッ……。


 微かに舌打ちをする音が聞こえた。ハッとして振り向くと、松本が屋上に繋がるドアにもたれながら腕を組み、私を無表情な顔で眺めていた。


 ──え……?!


 松本は私と目が合うと、唇の端だけをわずかに持ち上げてしわがれた声で呟く。


「ドアノブ……直ったようですよ。良かったですね」


 そう言いながら、ゆっくりと彼はドアを開けた。外から冷たい風が入ってきて頬を突き刺す。


「あ……良かったです。それじゃ……」


 松本とできるだけ距離を取りつつ屋上へ一歩踏み出す。フェンスの向こうに広がる鎌倉の夜景が目に飛び込んでくる。


 辺りはすっかり暗くなり、漆黒の夜空には明るい満月が輝いていた。


 私は油断なく松本の空洞のような目を見つめながら、自分を奮い立たせた。


──そうだった。ここからが正念場だよ──


 でもでも!本当にミカさん、どこにいるの?警察も早く来て──!!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る