閑話休題4   〜写真喫茶ニケにて〜


5月16日 20時46分


 ここは東京・神楽坂の路地裏にひっそりと佇む、写真喫茶店「ニケ」。店はオレンジ色の灯りを一段落とし、今日の営業を終えようとしていた。


 店内は落ち着いたアンティーク調の雰囲気で満たされ、流れるのはジャズピアノの心地よいBGMと淹れたてのコーヒーの香り。


 壁には店主のアニや常連客が撮った写真が雑然と、実は絶妙なバランスで飾られている。


 カウンターの中で、洗い物を終えたユッキーが手を拭きながら、店内のアンティーク調の小さな時計をちらりと見た。その和モダンな着物ドレス姿は、今日もまばゆい女神オーラを放っている。


 彼女は黒猫模様のエプロンを外しながらアニに声をかける。


「アニさん、ほらもうお客さん誰もいないし、いい加減閉店の準備しないと……」


 レジ横の黒猫の置物、通称「ニケちゃん」を無心に磨き続けているアニを見て、彼女は首を傾げる。


 彼は、ルミが2日前の藤沢にタイムリープすると言って店から走り出て行ってからずっと、まるで菊池のようにブツブツと独り言を呟き続けていた。


「もう、さっきから入口の前でなに?かなり辛気臭いんだけど……」


 ユッキーが清掃用のモップの柄でアニの頭をツンツン突つくと、アニはうなだれて答えた。


「そんなコト言ったってなぁ……ルミが心配なんだよ。俺はなんであの時、あんなこと言ったのか?」


 刑事ミカの依頼──何者かに命を狙われているという菊池の保護と、彼の撮った動画の回収──について悩むルミにアニは、


『菊池雄一の生死がわからない今、歪みの生じる行動は避けた方が良いのは確かだよ。ただ、ルミはどうしたい?』


と問いかけたのだ。


「考えてみれば、菊池自身が命を狙われているって言っている時点で危険なことはわかっていたのに、あの状況で俺はリスクある選択をさせてしまった……できるならあの瞬間にタイムリープして、自分の頭にハリセンを打ちたいよ」


 それを聞いたユッキーはサッと業務員用ロッカーを開け、何かを取り出す。それを見てアニは目を丸くした。


 それは大きな赤色のハリセンであった。しかも筆でデカデカと書かれた文字は「全てはアニのせい」。


「アニさん、今でも良いならハリセンはいつでも準備OKだよ」


「ちょっ……なんでそんなものがそんなトコから出てくるんだ……?」


 ユッキーは片手にハリセンを持つと、反対の手にパンパンと軽く打ちつける。口元に笑みを浮かべてはいるが、その目は笑っていない。


「──半分は冗談だけどね、半分はかなり本気だよ……あの鬼刑事の依頼を断れないのはわかるけど、アニさんは形だけでもルミちゃんを引き留めるべきだったと思うよ」


 アニは再び大きく息を吐き、すでに黒光りするほどに磨き上げた「ニケちゃん」の置物を見つめながら苦渋の色を浮かべる。


「──だよなぁ。はぁ……ルミはあの万莉って子の家族の悲劇について、何もできないって落ち込んでただろ?今回、菊池に対しても同じ思いをさせてしまったらと思ったら、ついさ………菊池は、ルミの指示が元でこうなったと動画で言ってるから」


「そっか、ルミちゃん……家族が突然いなくなった万莉ちゃんに、自分を重ねてるみたいで辛そうだったもんね」


「そうだろ、ルミの顔を見てたら、やりたいようにさせたくなったんだ……」


 気持ちはわかる……ユッキーは同意するように静かに頷く。


「うん、そうだね」


「それにな……」


──このチカラがある限り、私は誰かを助けたい──


「あの言葉をルミが言うとはな」


 アニは壁にかけられた彼の親友──ルミの母親の写真を見つめて遠い目をする。


「それ、誰の言葉なの?」


「ルミのお母さんだよ……真面目なアイツらしい言葉だ。あれを聞いて、ルミの中にはいつもアイツがいるんだと、改めて驚いたんだ」


 そっか……ユッキーは、アニの表情を見て小さくため息をつくと、彼の頭をハリセンで軽くパンパンと叩く。


 それで彼女は気が済んだようだ。


「できるなら、ルミちゃんにはお母さん探しを優先させてあげたいよね」


「本当だよ。谷中の迷子のプルート探し以来、中山浩司殺人事件・漆黒の白猫伝説・謎の美女マユとの遭遇……それから時空の狭間に飛ばされそうになったり、この短期間に2度も入院もした。万莉の家族の件やヒデ……そして今回の菊池の件……本当に、まるでかのように次々と何か起こるからな……」


 アニは眼鏡を外し、「ニケちゃん」を拭いていた布巾でそのまま眼鏡を拭き始める。


「結果的に赤いベランダの家にいるアイツ……いや、ルミのお母さんの写真が見つかって、行方を探す手掛かりは出来た。ただ、あそこが赤いベランダの家ならば、もしかしてあの家は本当に手に余る場所かもしれない……」


「手に余る場所って……アニさん、さっきもそう言ってたよね?何か心当たりがあるの?」


 アニは再び遠い目をしながら、静かに頷く。


「いや、まぁ。神崎敬三だっけ?昔、あの家に白衣の集団がいて住民とトラブルを起こしていたとルミが言ってただろ?」


「うん、ルミちゃんの報告で言ってたよね」


「実は学生の頃、ルミのお母さんと探偵部をしてた時に、が起きたことがあってさ……その時のことを突然思い出してな」


「ルミちゃんのお母さんが白衣の集団とトラブル?」


「そう、しかもその当時の集団が……ちょっとヤバい感じでな。で、もしあの家が、先日の写真でアイツが写っていた赤いベランダの家だったらと……そう考えたんだ」


「じゃ、手に余る場所を調べようとした、菊池もそのせいで命を狙われたってこと?」


「まぁ、でもそれは憶測だからな……」


「憶測?それってアニさんの中ではどれくらい確かな事だと思ってるの?」


「具体的?」


「そう、具体的」


「まぁ、確率的にはまぁ70パーント……控えめに言うと、そうだな……ちょっと、紙とエンピツを……」


 パァァァァン!!


 ユッキーが今度こそアニの後頭部を思いっきりハリセンでひっぱたいた。アニは見事に「ニケちゃん」を抱きしめる形で前に転ぶ。


 「もぉ、ちょっともう、本当に危険じゃないの!!」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


5月16日 21時00分


 その時、店の入り口のドアベルがカランコロンと鳴った。


 アニにもう一度ハリセンを打つために振りかぶっていたユッキーが、瞬時に女神の笑顔になって振り返る。


「すみませーん、今日はもう閉店なんです……って……え?刑事さん?」


 店のドアをゆっくりと開け、ミカが静かに現れた。その表情にはいつものキレがない。


「──なんだい?ここも修羅場かい?」


 低いその声に、黒猫の置物を抱きしめてうずくまっていたアニも顔を上げる。


「ミカ?どうした?」


「──どうやら、姫の賭けは裏目に出てしまったようだよ」


 その言葉に、アニとユッキーが同時に小さく叫ぶ。


「──菊池が?」


「ルミちゃん……!!」



── 第十一幕「事実改変」へ続く。

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