置き去り
神様、冗談キツいです。
それに気付いてからいちばん初めに思ったのはそんなことだった。
「ただいま」
部屋のドアを開けながら声をかける。狭いアパートの部屋の中、いつもならすぐにある返事が今日に限っては聞こえてこない。
「……寝てるの?」
覗き込んだ定位置に男の姿はない。部屋の中を視線で探るけれど、男はどこにも見当たらない。ドアの施錠はしてあったし、寒くなってきたから窓も開けていない。部屋を漁られたような形跡もないし、誰かが侵入した跡も、もしくは出て行ったような感じもしない。まるでそこには初めから誰もいなかったように、静かな消失だった。
私の話をひと通り聞いたあとで、篠崎さんは温かい紅茶を淹れてくれた。丁寧に淹れた紅茶は果物のような香りがするのだと、最近知った。
「なにか、思い当たる節はないの?」
まるで恋人でも失踪したような言い方をする。
「出ていくって言ったって、これでどうやって出ていけるんだか……」
塚元くんも困惑している。
正直、塚元くんも居なくなっているのではと思って篠崎さんを訪ねたところがある。けれど、ふたりは相変わらずのマイペースな暮らしを続けているようで、塚元くんは少し冷ました紅茶を、器用にストローを使って飲んでいる。
「置手紙とか」
「書けないだろ」
「確かに」
「伝言とか」
「誰に」
「難しいか」
おかしな空間だ。
あの男は唐突に私の元からいなくなってしまったのに、私はそれまで通りにきちんと(かどうかはともかく、とりあえず)ご飯を食べて、店に出勤し、睡眠を取り、休みの日にはこうして友人宅を訪ねている。置き去りにされたのは私の方なのに、なぜだか少し、すがすがしい気持ちをしているのだった。
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