光と蔭と 第一部 第二章

 しゆんぷうたいとうたるわたくしは西暦一九五四年に新潟県は長岡市にて誕生しましたが西暦一九五六年に父親がへいしましたので我我一家はもうまいなるわたくしと百戦錬磨の女流画家であった母親とのふたりだけでした。

 独立の大黒柱の存在しないかんどくの我我一族はしゆんたる母親の絵画が高値で取引されたがゆえにれんちゆうきゆうのように貧窮することもなくしよくそうぜんたる大正時代の和洋折衷風の豪邸所いわゆる南蛮渡来の『文化住宅』にていつだんらんとして生活しておりました。

 せんめいと『文化住宅』といえどふくげきじようの大正デモクラシー時にたいとうしたとうしゆとんとみを獲得したサラリーマン世代がしようりつさせた平屋建てよりも一層けんらんごうなる構造になっておりなる二階建てとなっていた我家はかくりようたる一階にゆうすいたる庭園をはるかせるせいひつなる居間が存在しさんらんたる陽光のかくやくたる二階はしつかい大御所の女流画家たる母親のアトリエ兼個展会場のようになっていたのです。

 天衣無縫たる幼少期より天賦才たる画力を誇示していた母親ですが旧弊を墨守する画壇ではるいじやくなる女流画家はひんせきされており百折とうの母親は完璧なる無名でありながら文部省展覧会でさんぎようされたぎようこうちようとしぼうばくたる世界的名声と財産とを獲得いんの財産でくだんの文化住宅をしゆんこうしてへきすうたる新潟県は長岡市にて本格的に制作活動をはつじんさせてもばくなる世界各国から斬新なる母親の絵画をきゆうして千状萬態のげいじゆつしゆうしゆうが謁見やや無尽蔵のように多作すぎる絵画も爆発的に取引され我我一家はほうじようなる生活を致しておりました。

 神聖ぼうとくすべからざる父親を喪失しながらもように順風満帆なる人生をおうしていた我我でございますがしゆんぷうたいとうたる母親はわたくしの誕生よりそこはかとなくわたくしの運命をじゆつてきそくいんしていたふしがございました。

 きんじやくやくしたる満二歳となりましたわたくしがとうしゆとんとみから由緒正しい幼稚園に入園しようとしていたころしゆんたる母親はゆうにおわらずわたくしの『能力』に勘附いたのです。

 えいだつなる母親がのうよーろつから輸入してくれたちんなるチョコレートをほおっていたもうまいなるわたくしが「これのおともだちがつくったがあよ」などと発言したらしくきつきようした母親の尋問したところわたくしもまたわたくしの父親同様『世界がひもでみえる』能力にひようされておりゆえに『世界のかんれん性がすべてみえる』ことを認識したのでございます。

 てつ急をさとった母親はわたくしを伝統ある幼稚園に入園させることをようそく阻止し『ながおかふくしのもり』という『精神身体しようがいしや用』の『児童発達支援センター』に入学させることをけつ致しました。

 ぼうひようのわたくしが情報しゆうしゆうしたところ『ながおかふくしのもり』はおう『よいこのいえ』という愛称の児童小学であったらしく昭和二二年の児童福祉法施行によって第四三条による『児童発達支援センター』となっていたのでございます。

『ながおかふくしのもり』にはくりしようがいをもった子供たちがさんそうしていたのですがわかのわたくしは某日せいかくなる先生方に「なんでみんなおんなじ『ひも』のかたまりなのに健康なひととしようがいのあるひとと御金持ちと貧乏なひとが世界のどこででもはなればなれになってるがあか」と尋問したそうです。

 しゆうしようろうばいした先生方はだれもわたくしの『尋問』にこたえられずわたくしは帰宅しゆんたる母親に同様の質問をしたそうでございます。

 母親いわく「それはわからねえけどもな。おめさんがそんなちからをもってるのはおめさんがひとを愛せるかららっけえそのちからをだいじにするがあよ」とのことでした。

 わたくしは理解できませんでしたが母親の言葉が一番しんぴようできるような気持ちがしました。


 ようにしてわたくしは成長致しました。

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