第150話 騒動①

◆騒動


 しばらくして男の事務員が病室に入ってきた。第一声、「臭い」と言って顔をしかめた。

「これは・・どういうことですか?」

 40前後の眼鏡をかけた事務員は壁に飛び散った血や床の吐瀉物を見て言った。

「この部屋から、女性が異様な様子で出てきたと報告を受けたんですよ」

 事務員が言うと若い看護師が、

「ウエダさん、私、怖かったんですよ」と声を上げて、ウエダという事務員に駆け寄った。

 ただ寄るのではなく、抱きつかんばかりの様子だ。俺や年配の看護師の目がなければ抱きついていたのかもしれない。

 それにしても、「怖い」って・・どっちのセリフなのだ、と思う。


 救急車のサイレンが聞こえてきた。

 事務員の男は、「外は、車の衝突事故で大騒ぎだよ」と言って、

「ミタニさん、この部屋で何があったんです?」とミタニという若い看護師に訊いた。

 訊かれた若い看護師は何を言うのかと思えば、

「それが・・」と小さく言って、年配の看護師をチラリと見て、「ヤマダさんが、お見舞いの方の顔に注射針を・・」

 えっ?

 若い看護師は続けて「私は女性の方の足を持つように言われて」と言った。

 逆だ。足首を掴んでいたのは、年配の方だ。

 だが、その時の記憶が無いのだろう。頭が混乱しているとしか思えない。

「ウエダさん、私、怖いわ」

 と言って、とうとう周囲にはばかることなく事務員にひしと抱きついた。

「ミタニさん・・」

 事務員がなだめる様に言うと、

「ウエダさん、やっぱり、ミタニさんと出来ていたのね!」

 年配の看護師が声高々に言った。すると、若い方が振り返り、

「そうよ、ウエダさんはいつも言っていたわ。年増女には興味がない、って」

「なんですって!」嫉妬に狂った人間の声だ。

 どうやら、事務員は二人の看護師と関係を持っているようだ。


 事務員のウエダは慌てだし、

「ちょっと待ってくれ」と二人を制し、「それよりも、そのお見舞いの女の人はどこに行ったんだ?」と話をそらした。

 事務員が俺の方を見たので、

「その人は、出ていって、おそらく車の事故で・・」と片言で説明した。

「なんということだ・・」

 事務員は、「室長になんと報告をすればいいのか・・」と小さく言った。


 ついさっきまで仲の良い上司と部下に見えていた二人の看護師の様子が180度、ガラリと変わった。

 廊下を通る時に聞こえてきた「不倫」や「まだ日が浅いのに」とかの言葉を思い出した。あれはこの二人のことを指してしたのだろうか? 

 いずれにせよ、ただの痴話喧嘩にしか見えない。

 絶妙のコンビネーションで市村小枝子に挑みかかっていたのが嘘のように思えた。

 この三人の中では、市村小枝子の存在がまるで消えている。同じく病室で静かに寝息を立てている芙美子も彼らの中にはない。

 芙美子はこの様子を見て、笑っているのだろう。

 おそらく、芙美子は看護師たちの中にくすぶる情念を利用したのだ。

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