第138話 市村小枝子②

 市村小枝子は「泥の水」と言った後、

「目撃した人によると、芙美子さんは一人ではなく、男の人と一緒だったようです」と言った。

「男の人というのは芙美子さんが交際されていた男ですか?」と俺は訊いた。

訊かずにはいられないのだ。

 俺は目の前の女、市村小枝子がどこまで掴んでいるのか知りたかったのだ。俺が芙美子を洞窟に置き去りにしたことが知られたら、俺は訴えられるかもしれないからだ。


 すると、市村小枝子がこう言った。

「佐伯さん、またそっちの方向に話を持っていかれるのねえ」

「そっちと言いますと?」

「男の人の話よ・・」

 市村小枝子は、組んだ片方の浮いた足をぷらんぷらんと揺すりながら言った。

「だって、芙美子さんが付き合っていた男性が一緒だったのでは、と思って」

 俺がそう言うと、

「私、芙美子さんが、どなたかとおつき合いされているなんて、一言も言ってはいませんわ。それに、芙美子さんと洞窟にいたのが、男の人一人だったとも言っていないですよ。他にもいたかもしれませんわ」

 まずい。

「いや、先ほど、素敵な人を見かけたと言っておられたので、芙美子さんは、その人とつき合うようになったのかと、てっきりそう思ったんです。勘違い、大変失礼しました」俺は弁解するように言った。


 俺は想像を巡らせた。市村小枝子についてだ。

 これまで、彼女は数多くの種類の人間と会話を交わしている。その経験上、相手の隙をつくのも上手いし、何かの話を聞き出す術も得ている。

 先ほどの会話はただそれだけのことだ。そう思い俺は深く考えないことにした。これ以上話すと、下手に何か言うと足元をすくわれるかもしれない。

 俺は再び、芙美子の母親に会う必要があったのか? と思った。

 考えながら、何かしら違和感が拭えない。

 それは・・この家に、芙美子が暮らしていたとは思えないのだ。さっきからずっとそう思っている。

 そう思わせる原因が少し分かった。この部屋もそうだが、どこにも芙美子の写真はない。芙美子が使っていたと思われる調度類もなさそうだ。

 それはこの女性が芙美子の義理の母親だからだろうか? それとも俺の思い過ごしなのだろうか。


 俺が沈思していると、市村小枝子はこの話を切り上げようと思ったのか、

「佐伯さん、私も病院に同行しますわ。その方がいいでしょう」と言った。

「私も予定がありますし、そちらも会社勤めでしょう? 今度の日曜日のお昼はどうかしら?」と話をまとめた。

 俺の了解を取り付けると、彼女はようやく目の前の湯呑に手を伸ばし世間一般の雑談を始めた。

「佐伯さんは、お仕事は何をされていますの?」とか、「ご結婚は?」などと訊かれた。俺は差支えのない範囲内でそれに答えた。


 雑談をしていると、部屋の外で、先ほどのお手伝いさんと誰かが話しているのが聞こえてきた。

 俺がドアの方に目をやると市村小枝子は、

「亡くなった主人の弟ですの」と言った。

 夫の弟がどうしてこの家に? と思ったが、人の家の事情に首を突っ込むのはよくないと思い、追及は避けた。

 それからしばらくしてお暇を告げた。

 帰る時、俺は市村小枝子に訊ねた。

「さっき、家の中で妙な音が聞こえませんでしたか?」

 しゅるしゅるという音が耳に残っている。

「いえ、何も聞こえませんわ」と市村小枝子は答えた。彼女の不審そうな顔を見て、失礼なことを言ったかな? と思った。


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