第137話 市村小枝子①

◆市村小枝子


 市村小枝子は、俺から目を離すと、遠くを見るような目をして、

「あれは確か、芙美子さんが大学の二回生になったばかりのことだったかしら? 嬉しそうにされていた時があったの」と話を切り出した。

 二回生と言えば、芙美子とつき合い出した時だ。

 ということは、俺の事だろうか?

 俺が「嬉しそうにとは?」と話を促すと、

「素敵な人を見かけたの・・芙美子さんはそう言っていましたわ」と言った。

「見かけた・・?」

 何か言葉に齟齬があるように思える。

 その「素敵な人」というのが俺のことなら、少しおかしい。

 俺と芙美子は大学の黒田に紹介をされて知り合った。「見かけた」と言うと、どこかで俺を見て好きになった。そんな風にとれる。

 だが突っ込んで訊くわけにもいかない。


「芙美子さんには、交際している男の人がいたのですよね?」俺は市村小枝子の表情を伺うように恐る恐る訊いた。

「芙美子さんは、あまり自分のことを語らない子なんです。それから、その方と何があったのか、私は知りませんわ」

 さっき、「嬉しそうに素敵な人を見かけた」と言っていたのに、それきり話さなくなったということなのか。


「それだけですか?」俺が訊くと、

「佐伯さんは、やけに芙美子さんの交際男性についてお尋ねになるのねえ。まるで刑事さんみたい」と薄ら笑いを浮かべた。

「いえ、特にそういうわけでは・・少し気になったので」俺は口ごもった。これ以上は追及しない方が賢明だ。

 すると、またどこかで、しゅるしゅると音がした。


 市村小枝子は、俺の様子を伺いながら、

「現在の芙美子さんに意識はありません」と強く言った。

 そして、古田から聞いた通り、意識は戻ってもいいはずだが、何故か戻らないと説明した。医学的で解明できないこともある。担当医はそう言っているらしい。


「早く意識が戻るといいですね」俺はありきたりの言葉を述べた。

「え?」

 と、市村小枝子は言った。「今、何か言われました?」という感じの声だった。

「ああ、芙美子さんのことね」彼女はようやく話が理解できたという風に笑った。


 何かの違和感を感じながらも俺は、

「芙美子さんは、洞窟で発見された・・知り合いからそう聞きました」と言った。

 市村小枝子は、「ええ」と頷き、

「いったい誰とそんなへんぴな場所に言ったのかしらねえ」と言った。

「怪我の程度は、酷かったんですか?」俺は話をそらすように訊ねた。

 

 市村小枝子は、両手に負った怪我もかなりだが、それだけでは意識不明とはならない、と説明した。

 問題は、洞窟の穴の底に水が溜まっていたことだった。長時間、芙美子はその水の中に浸かっていた。おそらく溺れるような感じだったのだろう。

 芙美子は、水面に顔を出したり、沈んだりの繰り返しをした、と推測されている。救助に当たった人からそう説明を受けたらしい。

 その時の水が、肺に溜まり、体の重症化を招いたと考えられている。

「水ですか?」

「ええ、それも綺麗な水ではありませんわ」

「でしょうね」

 俺が頷くと市村小枝子はこう言った。

「泥の水だったそうです」

「泥の水・・」

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