第134話 くやしい②

 改めて古田の顔面を見ると、顔中が汗だらけに見えた。

 いや、汗ではない。外の霧雨が古田の額や頬に噴き付けているように見える。

「中谷さん、何か私の顔についていますかな?」

 訝しげに見る俺の顔を見た古田が訊いた。

「いや、すごい汗だな、と思って」

 今日は、湿気はあるが、さほど暑い日でもない。

「そうですか・・」指摘された古田はハンカチで額を拭った。

 ・・ドキッとした。 

 ハンカチで拭われた古田の顏・・その眼球が飛び出ているように見えたのだ。

 古田は飛び出た眼球を沈めるかのように、天井を仰ぎ見た。

「古田さん、どうかしましたか?」

 俺が声をかけると、古田は俺に向き直って、「何ですか?」と言った。普通の顏だ。

 眼球が出てきたように見えたのは、おそらく気のせいだろう。


「中谷さん、こういうことですよ」

「こういうこと?」

 俺が訊ねると、古田は呟くように、

「生者の中に、死者がいるというのはこういうことだ」

 そう言った次の瞬間、

 古田は、小さく「くやしい」とポツリと言って、

「ああ、悔しい、悔しいっ!」何度も繰り返し始めた。

「悔しい」いう声がリフレインしながら大きくなった。

 同時に寒気がブルッと背筋を襲った。

「古田さん、ちょっと、声が大きいですよ」と古田を制した。ウェイトレスの加藤さんも訝しげに見ている。だが一度走り出した子供のように止められない。

「くやしいっ、歯がゆいっ、ワタシは何もできない」

 それはまるで誰かの呪詛のようにも聞こえた。

 ・・あなたを残して私は死んだ。くやしい、ああ、くやしい。

 古田は、何度かそう言って、目を剥いた。やはり眼球が血走り飛び出ている。気のせいではなかった。


 ガチャンッ! 皿の割れる音だ。加藤さんが誤って落としたようだ。

 それを合図に、古田の発作のようなものは治まった。

 正気を取り戻したかのような古田は、「失礼しました」と詫びた。そして、

「実は私の若くして亡くなった母を思い出したものですから、つい興奮しました」と言った。

「古田さんの母親?」

「ええ、そうです。母は、亡くなる直前、まだ幼かった私を置いて死んでも死にきれない。悔しい、悔しいと何度も言っていたものですから。それを思い出して、少し熱が入ってしまいました」

「そ、そうだったんですか」

 だが、さっきの声は、本当の死者が、古田にそう言わせているような響きがあった。


「私が言いたかったことは少しは分かりましたかな?」と古田が訊いた。

「何となく伝わるものがあったようにも思えましたが、それは、何かの恨みを残したような人の場合だけでしょう」と俺は言った。

 すると古田は、俺の言葉を訂正するように、

「それは、意識が無い人間も同じことが言えるのではないでしょうか?」と言った。

「死んだ人間は、何もできないと言いましたが、同じく、動けない人間もそうなのですよ」

 それは、芙美子のことか?

 古田は、芙美子が何処でどうして怪我をしたのか、知らないはずだ。

 いや、古田のことだ。怪我の原因は洞窟で・・ということくらいなら知っているかもしれない。

 勘定書を手にした古田は話を締めくくるように、

「院長は、こうも言っています。・・『死者と生きている人間は、どこかで繋がっている』」と言った。

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