第133話 くやしい①
◆くやしい
コーヒーの水面に細かな泡が浮かんでいる。泡のせいで水面に映る俺の顔が歪んで見える。店の照明で水面が異様なまでに綺麗に見える。
俺は自分の顔を飲むようにしてコーヒーを啜った。いつもの芳しい香りと共に、疲れを癒す味が口腔に広がった。
改めて店の壁に掛けられている畳一畳分ほどの鏡に目を移した。そこにはくたびれた三十男の俺と、妖しげな雰囲気を漂わせている古田の横顔が映っている。
そもそもこういった店の鏡は何のためにあるのだろう。少なくとも俺は自分の姿を見るとイヤになる。
カップをテーブルに置くと古田は話の続きをし始めた。
「中谷さんはそのようなことを考えたことはありませんか?」
「何をだ?」
「死者の悔しさ、この世の未練、やり残したことがあるのに、この世を去るという歯がゆさ、もどかしさについてです」
「いや、言いたいことは分かるが、それは仕方のないことだ」
だが古田は俺の話を聞かずに言った。
「死者の悔恨の念は、尋常じゃないですよ」
「尋常じゃない?」
ずいぶんと大袈裟な・・だが、口には出さないでおいた。
「お水、替えますね」
ウェイトレスの加藤さんが静かにコップを置く。そして、
「古田さんって、いつも面白いお話をするんですよ」と微笑んだ。
古田は笑い、俺に向かって「病院によく出入りするので、色んなエピソードがあるんですよ」と言った。
笑顔の加藤さんが去ると、
「これも院長の受け売りの言葉なんですがね」と話の続きをした。
「死者の悔しさは、尋常じゃないエネルギーを生む。院長は、よくそう言っています」
「だが、現実にはそんなことはありえない」俺は小さく言って、
「大体、科学的なことを扱う医者がそんなことを言うのもおかしな話だ」と疑問をぶつけた。すると古田は、
「病院にいると、科学では理解できないことに出会うものなんですよ」と言った。
そして、こう続けた。
「生者の中に、死者がいる。つまり、死者は生きている人間の一部なのです。これも院長がよく言っている言葉です」と何かの哲学のように言った。
生きている人間の中に死者がいる・・
「中谷さん。例えば・・千年も前の死者を弔ったりしますか?」
「著名人だったら、墓碑とかあるだろう」俺がそう言うと、
「いえ、そういうことではなく、ただの民間人です。名もなき人の死ですよ」と言った。
「何百年も前の人間のことなんて、考えが及ばないよ」と俺が言うと、
「悔しかった人もいると思いますよ」
「悔しかった?」
「まさか、自分が死ぬなんて、思いもしなかった人間は、無数、いや、無限にいるはずです。その悔恨の残滓が、あらゆる場所に残っていると思いますよ」
まさか、死ぬとは思わなかった。
・・くやしい。
裕美と洞窟に行った際に見た女の霊魂もその類のものだったのだろうか。
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