第109話 雨
◆雨
夕刻、駅を降り立つと雨が降り出した。本降りではないが、今日は、傘を持ってきていない。
仕方ない。濡れて帰るとするか・・
そう思った時、俺に寄り添う人がいた。同時に微かな香水の匂いがした。
遠山みどりだった。
二人の間に、傘の柄がある。
俺が、「遠山さん」と言うと、向こうも「中谷さん。こんばんわ」と返した。
「今、お帰りですか?」遠山さんが優しく微笑みかけた。
彼女とは駅は同じだが、家は反対方向だ。
「また、お茶でもしませんか? その間に、雨が止むかもしれませんから」
遠山みどりは、片倉女史と比べると地味な感じの女性だ。髪型からつま先まで、大人しい出で立ちだ。アクセサリーも胸のブローチくらいしかない。
俺は、そんな彼女には惹かれている。その理由は、どことなく亡くなった姉に似ているからだろう。
いや、ちょっと待て!
遠山みどりが、姉に似ているはずがないし、惹かれてもいないはずだ。
どうして一瞬でも、俺はそんなことを思ったのだ?
確かに、一緒に喫茶店に行った時、窓の外を見ていた遠山みどりを見て、ふとそう思った。だが、それは一時的なものだった。
外見からして、姉と遠山みどりは違う。
姉は心臓が悪く、血色も悪かった。それに比べて、遠山みどりは、健康そのものだし、ジムに通っていることもあって、その体は引き締まっている。
「中谷さん。どうかされました?」
遠山みどりは首を傾けニコリと微笑んだ。
俺は「何でもない」と応え、「そうするか」と言って、前に遠山みどりと行った喫茶店でしばらく雨宿りをすることにした。店までの道のりの相合傘が、妙に新鮮だった。
「あの日も・・雨でしたね」
席に着くと彼女はそう言った。
あの日というのは、前回、遠山みどりと来た時のことだ。前に来た時は、店にいた時に降り出した。
「今日は、きっちり予報が出ていましたよ」と遠山さんが言った。
「うっかしりていた」俺が言うと、
「神戸・・夕方、所によりにわか雨・・って」遠山さんが綺麗な声で言った。
今日、俺は傘を持ってきていない。いつもなら妻が持たせるはずだ。「帰りには降るかもしれないわよ。折り畳みを持って行ったら?」と促すはずだった。
無理もない。あれから、我が家では何の問題も片付いていない。妻の様子もおかしい。
注文したそれぞれの飲み物が、テーブルに配されると、
「中谷さん。最近、スポーツジムに来られないんですね」と遠山さんが残念そうに言った。
「最近、忙しくて」
俺は適当に答えたが、理由は違う。心情的にそれどころではなかったし、遠山みどりと片倉さんが一緒にいるところに俺がいると、非常にまずい。何が起こるか分からないからだ。そんな理由からか、ジムには最近行っていない。会費は勿体ないが、惨劇を防ぐ方が大事だ。
俺が、「片倉さんは、ジムに来ているのか?」と訊くと、
遠山みどりは、「片倉さんもあまり見かけませんね」と言って、
「中谷さん。片倉さんのことが気になるのですか?」と訊いた。
「いや、気になるわけでは・・」俺は言い淀んだ。
ジムに片倉さんがおらず、遠山みどりだけなら、行くのも悪くないと思っただけだ。
「俺が気になるというのは、彼女がやっている怪しげなビジネスのことですよ。ジムに行って彼女に出くわして、勧誘されたら、たまったもんじゃない」と笑った。
続けて、「体を鍛えに行って、ビジネスなんかの説明をされたら余計に疲れますよ。何のためにスポーツジムに行ったのか分からなくなる」と冗談めかして言った。
遠山みどりは、「うふっ」と小さく笑って、「中谷さんらしいですね」と言った。
再び、綺麗な声だと思った。
俺はよほど疲れているのだろうか? その優しい声に、心が和らいでいく。
考えてみれば、この数日間、色々と有り過ぎた。気を緩ませる時間もなかった。
それに、俺は欲していたのかもしれなかった。
俺の身の回りに起こる出来事について誰かに話したい。相談したい。
本来は、その相手は妻であるべきだ。だが、今となっては無理だ。
裕美にはある程度は話したが、
片倉女史には、あの男女の出来事については話すことになったが、芙美子にまつわる事は何一つ話していない。
遠山さんは笑って、
「その類の話がおイヤなら、聞かなければいいだけではありませんか」と言った。
「それはそうだが・・」
いい大人なのだから、断ればいいだけのことだが。
俺は言い方を変えて、
「遠山さんが、片倉さんのことを根に持っているのなら、そんな状況の二人を見たくないという気持ちもあるんですよ」と言った。
すると、遠山さんは少し微笑み、
「前に言いましたけど、私、確かに片倉さんを恨んでます。というか、恨んでました」と過去形で言い、
「でも、今は、それほど、恨んではいませんわ」と柔らかく否定した。
「そうなんですか」
「ええ・・以前、お話しした片倉さんのビジネスの主体は、旦那さんの方ですし、奥さんは、こういう言い方はあれですけど、奥さんの方は、使い走りみたいなもののようです」
「つまり、彼女は、夫の言いように使われている・・そういうことですか?」
遠山さんは、「ええ」と言ったが、
同じジムに通っている不動産屋の武藤は、片倉さんが主体であるかのように言っていたのを思い出したが、どっちでもいいことだと思った。
夫婦の事は、第三者には分かりかねるが、少なくとも、遠山さんの感情が穏やかであれば、そこに芙美子の力が寄り添うことはまずないだろう。
少し、気持ちが楽になった。
心のしこりのよなうなものが取れると、外の雨の音まで優しく聞こえるから不思議だ。
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