第108話 妻が見たもの②

「お母さん、どうしたの?」

 パジャマ姿の裕美は、血相を変えている母を心配そうに見た後、

 何かに気づいたように「あ・・」と小さく言った。

 そして、「お父さん!」と俺に声をかけ、「頭の上・・」と同じように言った。

 裕美は少しも驚かない。洞窟の中で何かの霊魂に遭遇した時もそうだった。怯える俺は「お父さん、怖がり過ぎだよ」と裕美に笑われた。


 動じない裕美を見て、妻は、「ひ、裕美にも見えるわよね?」と同意を求めるように訊いた。

「幽霊のような人が見える。女の人よ・・誰だか、分かんないけど」

「裕美には見えるのか?」

 俺が問うと、裕美は「うん」と頷き、

「お父さんの頭の上だよ!」

 俺の頭上を指差した。さすがの俺も立ち上がり、リビングの椅子に座り直した。

 すると、裕美は「あ、消えた・・」と言った。同時に冷気が去って行った。

 消えたことが妻にも分かったのか、大きく安堵の息を吐いた。

 だが、幽霊が見えなくなったからといって、妻の気が休まるはずもない。

「いったい、さっきのは何だったのよ!」

 妻は誰に向かってでもなく言った。そして、「きっと、この家は呪われているのよ」と断定した。「この前にも窓に手の形の汚れが付いていたことがあったし」

 俺は、「まあ、落ち着け」と言った。

 対して妻は、

「落着けですって! あんなものを見た後に落ち着けるわけがないでしょっ」と怒鳴った。

 妻の高ぶりに対して、裕美はいたって冷静だ。いや、落ち着き過ぎだ。

 裕美は淡々と、「お母さん」と呼びかけ、

「さっきの幽霊・・何もしないと思うよ」と言った。

 そんな言葉は逆に妻の気を逆撫でする。

 妻は眉をひそめ、「裕美、何を言っているの? 幽霊の気持ちが裕美には分かるって言うのっ!」と言った。

 妻は、攻撃の矛先を俺から娘に転じたようだ。

 だが、裕美は、怒る妻の様子を観察するようにじっと見ながら、

「お母さん、誰かに恨まれているんじゃないの?」と笑った。

 それは、子供らしい冗談にもとれるが、俺には何らかの悪意に思えた。


 裕美が二階に上がると、妻は本気でこの家を出ることを考え始めたらしく、残っているローンのこと等、ぶつぶつ言い始め、書棚から銀行関係の書類まで取り出してきた。

「こんな家、冗談じゃないわ。住んでられないわ」

 この家を出ることばかり考えている妻に俺は言った。

「なあ、美智子。引っ越しとか考えているようだが、美智子の見た幽霊は、この家にとり憑いているとは限らないだろ」と言った。

 家にとり憑いているのでないとするなら、それは俺だろう。

 すると妻は書類から顔を上げ、

「あなたよ! 全部、あなたが悪いのよ」と罵るように言った。

 妻の気が収まる気配はない。

 この事態の元凶の全ては俺だ。それは分かっている。だったら、どうすればいいというのだ。


「あなた、さっき、片倉さんに電話をかけようとしていたわね?」

 妻は強く言って、

「浮気をしているのは、あなたの方なんじゃないのっ!」と更にまくし立てた。

 らちが明かない。

 俺は妻の気を落ち着かせようと、

「いいか、落ち着いて聞くんだ」と前置きし、「俺は誰とも浮気なんてしていないし、もちろん、片倉さんとも何でもない」と言った。

 片倉女史に電話をかけたのは、妻の不倫現場の写真を持っているからだ。

 そのことを思い切って言うべきか?

「片倉さんに、お前が不倫している現場の写真を見せてもらったんだ」と言うべきか?

 いや、今はまずい。話がこじれそうだし、片倉さんに変に迷惑がかかる恐れがある。

 一番いいのは、彼女から写真のコピーを頂くことだ。それで、妻の不倫を証明できる。


 そう決め込んだ俺は、何とか妻をなだめることにした。幽霊を怖がる妻に、そんなつもりもないが、「引っ越しも考えてみよう」と言った。


 取りあえず落ち着きを見たが、

 何かしら違和感が拭えなかった。

 妻は幽霊を見てから、非常に興奮している。

 片倉さんへの電話のことを持ち出して、「浮気をしているのは、あなたの方じゃないの!」と激しく言った。

 それが、おかしいのだ。

 幽霊を見た、と騒ぎ出した妻の様子と、それ以前の妻の差異が大きすぎる。

 もちろん、幽霊を見たというのだから仕方ないと言えばそうなのだが、

 俺が片倉さんに電話をかけようとした時、妻は確かに笑っていた。

「何がおかしい?」と訊いても、「何でもない」と応え、「バカみたい」と嘲笑するような表情をとっていた。

 その不敵な様子の妻と、幽霊を見てからの妻の様子の開きが、あまりに大き過ぎるのだ。

 違和感はまだある。どちらかというと、この違和感が一番大きい。

 それは、片倉さんに見せてもらった写真だ。

 幽霊が現れるまで、俺は妻の不倫現場の写真を思い出すことが出来なかった。何かに邪魔をされていたみたいに記憶の一部が欠落していた。

 だが、今はハッキリと思い出せる。

 あの不倫現場の写真は、やはり本当だった。

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