第97話 車中にて②

 そして、ただの疑念が確実へと変わる出来事が向こうからやってきた。

 それは、近所に住むセレブ妻の片倉麗子だった。

 片倉麗子に会ったのは、俺の昇進祝いの帰りだ。祝いと言っても、花田課長の喪に服す期間だ。簡素に乾杯だけのものだった。

 夜の十時頃、並木沿いの舗道を歩いていると、車道からクラクションを鳴らされた。振り返ると、俺の歩みに合わせるようにゆっくり車が走っている。かなりの高級車だ。

 俺が立ち止ると、

「やっぱり、中谷さんだわ」とウインドウが下がり、女が笑顔を見せた。

 片倉麗子だった。

 彼女は、「ちょっと、待っててね」と言って、すぐ近くの側道にまわり車を停めた。

 そして、車を降り立ち、街灯に照らされた姿は、まるで自分の美しい姿を見て欲しいと言わんばかりだった。

 どこかのパーティの帰りのような派手な服装。いや、彼女の場合、これが普段着なのかもしれない。

 高そうなアクセサリー類に、ブランドものバッグを手にして、こちらから向かうのを待っている。

 彼女に近づくと、

「私、一度会った人なら、後姿ですぐにわかっちゃうのよ」と言った。そして「特に男の人はね」と意味ありげに微笑んだ。

 俺が適当な挨拶をすると、

「最近、スポーツクラブにお見えにならないのね」と彼女は言った。

 特に行かないという訳でもなく、ただ、忙しかっただけだ。

 俺が適当に言うと、

「私、ジムで、中谷さんにお会いしたら、ぜひ、言いたいことがあって、ずっと待っていたのよ」

「待っていた?」

「そう、待っていたの」

 待っている、という一言に、片倉麗子には色香が漂う。

 こんなセレブ美人が俺に何の用がある。何かの商売の勧誘か?

 あの武藤という不動産屋は俺に注意を促していた。

「女は、彼女のビジネスのエサになり、男は色欲のエサになる」

 だが、片倉麗子の話は、少なくともビジネスとは全く関係のないものだった。


「中谷さんには、大いに関係のあるお話しよ」片倉麗子は強く言った。あなたは、聞かなければならない、そんな言い方だ。

 俺に関係のある話?

 立ち話もなんだから、少し戻ったところにある喫茶店でも行かないか、と俺は提案したが、

「人に聞かれたら、よくないお話しなのよ」

 片倉麗子は囁くように言って、

 そして、「お互いにね」と強く言った。

 お互いに?

 だったら、どこで話す? と言う俺に片倉麗子は「中谷さん。私の車に、お乗りになって」と言った。

「少し、走ったところに見晴しのいい高台があるのよ。そこだったら、誰の目にもつかないわ」

 片倉麗子はそう提案した。

 普通であれば断るところだが、そこまで人の目を気にして、俺に話したいことは何なのか、すごく気になり、彼女の言う通り素直に車に乗った。

 車は彼女専用なのか、片倉麗子一色に彩られていた。車載専用品も車中に漂う匂いも全て片倉麗子そのもののように思えた。

 彼女は人目をはばかるようなことを言っていたが、俺が車に乗るところや、助手席にいる俺の姿を知っている人間に見られたら、いい仲に見られても致し方ないだろう。


彼女の横顔を見ながら、話は短く済むのか? と訊ねると、

「話は短いけど、ご近所で話すのは気が引けるのよ」と応えた。


 目的地の高台には、片倉麗子の言った通り、すぐに着いた。

 町の夜景がきれいに見渡せる。

あえて自分の住む町の夜景など見ようとも思わないから、この高台にも来たことがない。

空き地と言っても、車を何台も入れることのできる大きな公園のようなものだ。他にも景色を眺めているのか、車が一台停まっている。そういった人の為なのか、トイレもある。

 

 片倉麗子は、空き地の端を選んで車を停めた。真ん前は、崖が切り立っているので、夜景以外は何も見えない。先は断崖だ。と言っても車止めの柵がある。

 なるほど、密談をするには最適な場所だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る