第88話 ここにいるのは②

 どうしてだ! 埋められた?

 いや、違う。さっきはあったはずだ。確かに見たぞ。

 念のため、穴の近くまで寄った。

 だが、穴だった場所には、長い綱が置かれているだけで、何もなかった。平坦な地面が続いているだけだ。埋められたような感じでもない。

 ・・穴が無いのなら、人が落ちようがない。

 いや、何を言っているんだ。実際に俺と芙美子はここまで来て、穴の中に芙美子の姿が消えたではないか。

 芙美子はこの洞窟でいなくなったんだ。

 これは、幻覚だ。芙美子が見せる幻覚なんだ。きっとそうだ。


「ね、お父さん。穴なんてないでしょう」

 振り返ると裕美が澄ました顔で微笑んでいた。

「違うんだ、裕美。穴はあったはずだ。今は見えていないだけなんだ」

 俺の言っていることがおかしいことは分かってる。だが、言わざるを得なかった。

 こんな言葉で、裕美を説得できるとは思えないが、俺は懸命に説明した。だが、実際に穴は見えていないのだから説得力がない。

「お父さんを信じてくれ!」

「おとうさん・・」

 その時だ。裕美の声にノイズが走ったように乱れた。

 声もおかしいが、涙を流している裕美の顔が、ぼんやりと輪郭を失っていくように見えた。

 そして、再び「中谷くん」と俺を呼ぶ声が聞こえた。

「苦しまないで・・中谷くん」


 芙美子だ。裕美の中に芙美子がいる。ノイズのようなものが走り、聞き取りにくいが、内容は確実に伝わってくる。

 俺は、義理の娘、裕美を媒体にして芙美子と会話をしている。

 裕美、すまない! 謝っても謝り切れない。


「・・来てくれたのね」

 俺の来訪を喜んでいるかのような声だ。

「芙美子!」

 俺の叫ぶような声に裕美の頭が揺れた。

「教えてくれ! お前は、この穴を消したんだろ?」

 もしかすると、

 それは、俺の為なのではないか?

 そう思ったのは、さっきの芙美子の言葉だ。

 芙美子は「中谷くん、苦しまないで」と言った。

 芙美子は、俺の苦悩の元である「穴」を消したのではないだろうか?

 だが、いくら芙美子でも地を揺るがすことはできないだろう。俺の目に見えないようにしているだけだ。芙美子にはそれができる。

「芙美子が見えないようにしているんじゃないのか?」再度、俺はそう言った。

 芙美子は俺の問いに答えない。だが、答えないことで俺の思っていることを肯定している。

 穴は絶対にある。見えていなくても、穴がここにあることを感じる。


「ごめんね、中谷くん」

 裕美の顔のまま、芙美子は、そう言った。

 どうして、謝ったりする。

「芙美子・・君は生きているのか?」

 それとも、芙美子は、今は見えないこの穴の中にまだいるというのか?

 すると、裕美の口が動いた。

 何て言ったんだ? 激しいノイズで聞き取りにくい。

「ワタシは・・」

 その言葉は俺にはこう聞こえた。

「・・私は、ここにはいないわ」

 まさか、芙美子は生きているというのか。

 ならば、どこにいる? 生きているのなら、どこに行けばいい?

 どこに行けば会える!


 俺が問い続けると、裕美が「んっ!」と小さく声を上げた。

 見ると、裕美が苦しそうにしている。理由は分からないが、これ以上、裕美を媒介にして芙美子に語らせていると、裕美の体が危険な気がした。


「お願いだ、芙美子。裕美の中から出て行ってくれ!」

 俺と芙美子のことは裕美は何の関係もないんだ。

 すると、次の瞬間、裕美はふら~っと俺の方に倒れ込んできた。

 俺は裕美の体を強く抱き締めた。


「お父さん・・」

 抱きすくめられた裕美は、顔を上げて苦しそうに言った。そして、

「やっぱり、穴はないよね」と言って微笑んだ。

 裕美の記憶は、さっきの時点で止まっていたようだ。

「ああ、穴なんて、ない。裕美の言う通りだ」

 俺と裕美の目には穴は映っていない。

 まるで、穴の消失によって、芙美子との関わりが消えたように感じた。

 少なくとも、これでは裕美に説明できない。

 そして、「お父さんが誰かを突き落としたなんて、私、信じないよ」

 裕美は、そう言った。

 その言葉が芙美子が言わせているのか、裕美の純真な心で言っているのか確かめようもない。

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