第87話 ここにいるのは①

◆ここにいるのは


 気がつくと、裕美の気配が消えていた。

 振り返っても、そこにいるはずの裕美がいない。そんな感覚だった。

「裕美?・・」

 そこにいるのか?

 俺は小さく声をかけた。裕美は俺を見ている。

 確かに裕美の顔だ。だが何かおかしい。

 さっき俺を「中谷くん」と呼んだのは、裕美なのか?


「お父さん・・」裕美が小さく言った。

 間違いなく裕美だ。だがその声が震えている。

「どうした? 裕美。何かあったか?」

 その顔、裕美の頬が涙で溢れ返っていた。

 懐中電灯で照らさずとも、裕美の顔はその光で照らされた洞窟の壁面の反射で十分に見える。洞窟の天井から垂れてくる水滴とも思ったが、違う。

 裕美の涙は止めどなく流れている。

「裕美、なぜ、泣いている?」

「わかんない」裕美は涙を拭いながら言った。「お父さん。どうして、私、こんなに悲しいのかな?」

 まさか、芙美子の記憶が裕美の中で蘇っているのか?

「お父さん、私、やっぱり変なのかな・・」

 俺の中に大きな感情が溢れてきた。

「変じゃない。裕美はちっとも変じゃないぞ」

 全部、俺のせいだ。

 裕美はいい子だ。俺がお前のお母さんと結婚したばかりに、こんなことに・・

 いったい俺は何をやってるんだ。

「ごめんな、ごめんな。裕美!」俺は繰り返し裕美の名を呼んだ。

 込み上げてくる感情の勢いにまかせて、思わず裕美を抱き寄せた。

 俺の腕の中で「お父さん、苦しい」と訴えた。

 俺は慌てて腕を離した。

 解放された裕美は息を荒くして、

「お父さん、どうして謝るの?」と言った。


 確かに裕美に謝るのはおかしい、裕美が言うのは当然だ。

 だが、そう言わざるをえない自分がいる。

 決して謝って済むことではないが、俺は、謝らなければならない。

 ・・すまない、芙美子。


「全部、お父さんが悪いんだ。お父さんのせいだ」

 俺はがくりと膝をついた。

「お、お父さん?」

 裕美がきょとんとしている。そのあどけない姿の中に芙美子の存在は感じられない。

 全部、裕美に暴露すればいい、学生時代、俺が芙美子にしたことを。


「お父さんのせい?」

「ああ、お父さんのせいだ」

 洞窟の暗闇がそうさせているのか。俺の口は止まらない。

「お父さんは、この洞窟で、ある女性を置き去りにしたんだ」

「えっ、女の人を?」

「ああ、そうだ。その人を・・」

 俺は、穴の方を指し、

「ほら、そこに穴があるだろ? そこにね、お父さんは、その人を突き落としたかもしれないんだ」

 俺がそう言うと、裕美は「穴?」と言って、好奇心を見せた子供のように、穴に向かって歩を進めた。

「危ない! 近づくんじゃない」俺は裕美に注意を促した。

 俺の真剣な声に裕美は、

「そんな穴、ないわよ」と軽い口調で返した。

「え?」

 時間が止まった気がした。

「いや、そんなはずは・・」

 俺は「何をバカなことを言っている!」と言わんばかりに言った。

 だが、次に視線を穴の方に移した瞬間、

 俺の足が、ガクガクと震え始めた。

「穴が無い!」俺は叫んだ。

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