第85話 磁場①

◆磁場


「私、中に入ってみたいな」

 ただの子供らしい好奇心なのか、俺の迷いを後押しするように裕美が言った。

「危ないぞ。それでもいいか?」俺は念を押した。

 ここは立ち入り禁止の場所だ。親の責任もある。

「だって、お父さんがいるじゃない」と裕美は強く言った。

 そのやり取りが終わらないうちに、俺たちは洞窟に足を踏み入れていた。

 裕美に言われずとも、俺はここに来る予定だったのだ。裕美が怖がれば、裕美を外で待たせて、一人で入っていたことだろう。

 この時のために懐中電灯を用意してあった。それでも足元は悪い。水滴が落ちる音が聞こえる。

 歩みは遅いが裕美は楽しそうだ。「こんな場所、初めて」と言って騒いでいる。

 旅行のように初めて娘と来た場所がこんな所とは、運命は皮肉なものだ。

 これは何かの因縁だろうか。


 俺は思い出していた。芙美子を無理やりここに連れてきた時のことを。

 芙美子は嫌がっていた。「こわい」と何度も言っていた。その時、俺の心は芙美子から離れていた。

 そして、一つ言えることがある。

 学生時代の俺と、今の俺は違う。


 突然、背後の裕美が、

「お父さん」と小さく呼びかけた。

 暗く狭い洞窟の中では小さな声でも反響し大きく聞こえる、

 声の大きさに驚いた俺は振り返って、「おい、驚かすなよ」と言い、「どうした?」と訊き返した。

「奥に・・向こうに誰かいる・・」裕美は洞窟の奥を指している。

「ばかな、こんな場所、誰も来ないし、人の気配なんてない」

 音がしない。俺と裕美の足音と息遣いだけだ。

「いるよ」

「だから、そんなものは!」誰もいない、と俺は断固否定した。だが裕美は、

「すぐそばにいる・・」と強く言った。

「そば?」

「もうそこにいる」

「えっ?」

 裕美の言葉に俺は、洞窟の奥を懐中電灯で照らしたが、

 その必要もなかった。

 前方に目をやった瞬間、女性の姿が認められた。だが、どう見ても人間ではない。

 薄ぼんやりしているからだ。

 その姿を認めたかと思うと、目の前に顔が大きく映った。

 女の顔だ。

 すーっと音もなく来たのだ。信じられない速さだった。人間の歩みの速度ではない。

「うわっ!」俺は思わず情けない声を上げ、そのまま後ろに仰け反った。

 俺の体をふわっと何かが通り抜けていったように感じた。

 冷たいっ! 極度の冷気だ。洞窟の冷気とは別のものだ。

 まるで体の中に大量の氷を詰め込まれたようだ。体中がゾゾッと震え、大きな痙攣を繰り返した。


「い、今のは、いったい何だったんだ?」俺は姿勢を戻して言った。

 それが通り過ぎてしまうと、体の感覚は元に戻った。

 だが、確かに何かが俺の中を通り抜けた。

 そして、それは芙美子ではない。一瞬、芙美子の魂かと思ったが、一瞬見えたその顔は、まるで知らない女の顔だった。

「お父さん、怖がり過ぎだよ!」

 裕美は楽しそうに笑った。俺と裕美の感覚に非常に大きな開きがある。裕美は全く恐怖を感じていないようだし、むしろ楽しんでいるような感じさえした。

 それに比べて、なんて情けない父親だ。


「裕美にも、何かが見えたんだろう?」

 俺はこれまで幽霊など信じたりはしなかった。だが、芙美子のことがあってからは信じざるを得なくなってきている。

「私、見えたよ。あれって、幽霊じゃないの? きっと幽霊だよ。こういう場所だし」

 俺は正しい答えを見失っていた。「あれは確かに幽霊だな」とでも言えばいいのか?

「お父さん、幽霊に好かれてるんじゃない?」

 裕美は冗談ぽく言った。その言葉をあながち否定もできない。確かにそうかもしれない。


ここはそういう場所なのか?

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