第66話 浮く心
◆浮く心
夕刻、電車から流れ出るように降りた。家路につくホッとする時間だ。同時に一番疲れている時間でもある。
今日は、スポーツジムに行く予定も立てていない。サボりだ。それに少し飽きてきているし、立て続けに起こる異変で心境が変わってきている。のんびりスポーツする気分でもないのだ。
「中谷さん・・」
駅から出ると、若い女性に声をかけられた。
振り向くと、若い女性・・遠山みどりさんだ。
妻をスポーツジムに誘った片倉麗子というセレブな女の連れ合いだ。と言っても片倉麗子の鼻につくような感じは微塵も感じさせない。どちらかというと薄幸な感じの女性だ。かといって、ひ弱な感じはなくスポーツが得意そうだ。
「遠山さんでしたよね?」俺が確認するように言うと、「はい、遠山みどりです」と笑顔を見せた。
「中谷さんのお家、この近くなんですね?」
家が近くなのに今まで会わなかったのが不思議だと言わんばかりに遠山さんは言った。
俺と会っても、仕方ないと思うのだが、遠山さんは嬉しそうだ。スポーツクラブで会った時には見せなかったような素敵な笑みだ。
遠山みどりは、あの片倉麗子と知り合いなのだから、家が近くでも不思議ではない。
お色気満載の片倉麗子は我が家の近所だ。だが、通勤途中で出会ったりしないのは、片倉麗子の場合は高級車での通勤、もしくは有閑マダムだからだろう。
それに反して遠山みどりは、その服装からしても、いたって普通のOLだと推測される。雰囲気も派手さはなく清楚だ。
片倉麗子の派手に染めた髪に比して黒く長い髪が清潔感を印象付ける。
そんな二人が連れ合っているのは、謎だ。
俺が「家はあちらですか?」と自分の帰路を指すと、「私は反対ですね」と遠山みどりは応えた。
それなら、ここでお別れだ、と思っていると、
「せっかくですから、中谷さん。もし、よろしければ、お茶でもしませんか?」と遠山みどりは言った。
いきなりだな。彼女と話すのは初めてではない。スポーツクラブで何度か話している。だがそれはクラブという空間だ。それにいつも片倉麗子がいたので個人的な話はしていない。
この後、何の予定もない俺は誘いに乗ろうとしたが、
いや、ダメだ。俺と関わると、ろくなことがない。また何かが起きそうだ。そんな悪い予感で心にストップがかかった。
駅近くで何かが起きるとは考えにくいが、ショッピングモールのような人が多い場所でも異変は起きた。
遠山さんの誘いは丁寧に断り、帰宅する方が賢明だろう。
だが、その時の俺は、遠山さんの誘いに引き込まれるように体が動いていた。
何かを知りたかったのか、それとも遠山みどりという女性に何かの魅力を感じていたからなのか。
それほど強くもない夜風に流れる遠山さんの長い髪が、はらはらと降りかかってきたような気がした。
・・彼女とお茶を飲みに行った方がいい。誘いは断るべきではない。俺の中の何かがそう反応した。
俺がそう思ったのではない。何か、いや、誰かの力に突き動かされたのだ。
駅近くのコーヒー専門の無難な喫茶店のボックス席で向き合い、珈琲を飲みながら他愛もない雑談をした。話題はスポーツクラブの話。互いの仕事の話へと進んだ。
話題が自然と片倉麗子の話になると、
俺が「遠山さんと片倉さんが仲がいいようには見えないのですが」と切り出すと、遠山さんは、「見抜かれてますね」と言って微笑んだ。
やはり、二人が仲がよくてスポーツジムにいるわけではないようだ。
更に、突っ込んで話を聞こうとしたが、その内容は妻から聞いた話と大差なかった。
だが、それでも僅かな会話の隙間から、遠山さんの夫の自殺した原因が片倉麗子のビジネス、そして、その夫の会社が絡んでいることが推察された。
そして、分かったことがある。
遠山みどりは片倉麗子と仲がいいどころか、恨んでいるということ。それだけはわかった。
そこには金銭が絡んでいる。ビジネスよって生じた借金。それを苦に、遠山みどりの夫は自らの命を絶った。
もちろん、片倉麗子はそのことを知っている。
片倉麗子が、遠山みどりと一緒にいるのは、彼女が恨んで何かをしてこないか、監視しているのかもしれない。
逆に、遠山みどりが片倉麗子とよく行動をしているのは、何かを伺っているのかもしれない。二人の関係は微妙なバランスで成り立っている。そうとしか思えない。
そこまで思考を巡らせ、はたと俺は思い留まった。
どうでもいいではないか・・他人の家の事情など。
それに、俺は元々こういう人間だったか? 他人の人生に首を突っ込み、何かをしようとするお人好しだったか?
これ以上の深入りはやめておこう。俺らしくもない。
30分ほど話し込んだが、それ以上の進展はなく、何のためのお茶なのかよくわからなかった。何かの力に突き動かされて喫茶店に来たが、特に何もなかった。
だが、最後に出た話は俺にとって意味があるように思えた。
それは・・
「中谷さん」と遠山さんを俺を呼び、
「この前、中谷さんの奥さまをお見かけしましたわ」と言った。
「どうして、妻の顔を?」
俺が尋ねると、昼間のスポーツジムで片倉麗子といる時、紹介されたそうだ。
話のついでに「どこで?」と尋ねると、それは意外な場所だった。
遠山さんは「六甲の駅近くです」と言って、「お声をおかけしようと思ったのですけど、急いでおられるようだったので」と続けた。
「遠山さんの見間違いじゃないですか?」
そう思ったが、遠山さんは「そんなはずはありません。その時、片倉さんもいましたから」と言った。それなら、見間違いの可能性はない。
妻は何かの所用で六甲に行ったのだろう。わざわざ俺に伝えるような大した用事ではなかったということだ。
遠山みどりは、この話をしては不味かったかな、という風な顔をした後、窓の外を見て、
「あら、降ってきましたね」と小さく言った。
雨だ。まだ小降りだが強くなりそうだ。ガラス窓にパラパラと降りかかっている。 早く帰らないと・・そう思った時、
窓の外を見ている遠山みどりの横顔を見てハッとした。
一瞬だが、遠山さんの顔が、ある人に似ているように思えた。
それは、若くして亡くなった俺の姉だ。
子供の頃の記憶だ。確かなことは言えない。だが、似ていた。
懐かしい気持ちが込み上げてきたが、彼女の顔が正面に向き直ると、その思いは消えた。
俺の前にいるのは遠山みどりであって、それ以外の何者でもなかった。
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