第47話 ショッピングモール②
俺の問いに、「そうだよ」と裕美は応えた。「ずっと前から」とも言った。
そして、まだ注文を決めていない俺に、
「お父さんは、ウィンナーコーヒーだよね」
瞬間、心臓の鼓動が止まった気がした。
なぜ、知っている。
ウインナーコーヒーなど、手間のかかるものを家で飲むことはない。家ではただのブレンドだ。
ウインナーコーヒーのことを知っているのは・・妻と、そして、芙美子だけだ。
妻が知っていると言っても、実際にウインナーコーヒーを飲んだりしていたのは、妻とデートを重ねていた時だけだ。もう妻は忘れているだろう、そんなレベルだ。
「お母さんから聞いたのか?」
と、俺は訊ねた。すると、裕美は「ううん」と首を振って、「そんな気がするの」と言った。
「そんな気がしたって・・」
「ぱっと、頭に浮かんだの」
裕美は無邪気にそう言って「お父さんは、ウインナーコーヒーが好きだ、って」と続けた。
まるで、誰かに言われたように。
いずれにせよ、おかしい。裕美の中に何者かが宿っているようだ。
それは、誰か?
その名前を浮かべるのが怖くなってきている。その名前を忘れたくても、ずっと追いかけてくる。現実でも夢の中でも。
シナモンティーが運ばれてくると、裕美は嬉しそうに口をつけた。そして、結局頼むことになったウインナーコーヒーを飲む俺を嬉しそうに眺めた。
まるで、小さな願いが叶ったかのような笑顔だ。
色々と不明なこと、薄気味悪いことだらけだが、取り敢えずこうして裕美との距離を縮めることができたのだ。良しとしよう。
だが、俺は思った。
シナモンティーとウインナーコーヒーが並んだテーブル。
その取り合わせは、俺の人生の中でも、そうあるものではない。妻ともそんな機会はあったが、記憶では、一回あったか二回か? その程度の回数だ。
だが、芙美子とは、大学の近くの喫茶店で何度も同じパターンを繰り返した。この光景を脳裏に焼き付くほど見ている。
光景を思い出すと、当然、芙美子の顔や言葉を思い出す。
芙美子は、香り立つ紅茶を一口飲むと「ねえ、中谷くん」と俺を呼んだ。
「こんな時間、ずっと続けばいいのにね」
芙美子はそう言った。
だが、俺たちは古びた喫茶店で、大学の休講の時間をやり過ごしていたにすぎない。
こんな時間が続けばたまったものじゃない。
その時の俺は二十歳・・もっと先の未来のことを考えていた。だが、芙美子は、俺と過ごす時間のことだけを考えていた。
それが煩わしいとも思わなかった。俺の知り合いが、自分の彼女に「毎日のように、自分のことを好きか? と訊かれて、うるさくて仕方ない」と、ぼやいていたのを思い出した。だが、芙美子は決してそんなことは言わなかった。
そんなことを言われるよりは遥かにマシだったし、芙美子は一緒にいて疲れなかった。
芙美子は、そんな薄情なことを考えている俺と過ごす時間を精一杯楽しんでいた。
いつか失われてしまう時間を、心に刻みつけるように。ずっと永遠に。
「お父さん・・」
他愛もない会話の中、裕美は俺に尋ねた。
「ねえ、お母さんのこと、好き?」
当たり前だ。俺たちは夫婦だ。嫌いなわけがないし、これからもずっとそうだ。
俺はそんな当たり前のことを裕美に言った。
裕美は「ふうん」と言って、再び紅茶に口をつけた。
すると裕美は「じゃ、私のことは?」と言った。
一瞬、ドキッとしたが、俺は「裕美は俺の娘だ。娘が嫌いな親なんていないだろ」と当たり前のことを強く言った。だが、裕美は「でも、血は繋がっていないよ」と言って微笑んだ。
その微笑の意味が分からない。
俺が答えに窮していると、「あんまりいじめちゃ、悪いね」と裕美はペロッと舌を出した。
裕美は、こんな風に誰かとしゃべったり、際どい冗談のようなことを言ったりする子だったのか。
俺には裕美の父親になる資格なんてなかったのだ。裕美のことを全く知らなかった。
そして、俺はこうも思った。
今、目の前にいる裕美が、本来の裕美の姿なのだろうか?
それに、裕美が学校の子に苛められているなど、全くそのような印象は受けない。
そんな会話の後、裕美はこう言った。
「浮気はしちゃ、ダメだよ」
それは、自分の母親が悲しむとか、そんな風には聞こえなかった。まるで裕美が俺の配偶者であるかのような口ぶりだった。
更に、裕美は、もし俺が浮気をしたのなら、
「相手の人が大変ね・・」
そう冷笑するように言った。その表情に俺は息を呑んだ。
・・その表情は、芙美子に似ていた。
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