第42話 近所の人②

 俺は話をさっきのスポーツクラブの話に切り替え、「前から、あの人に誘われていたりしていたのか?」と訊いた。

 妻は「時々ね」と鬱陶しそうに答えた。

 俺が「近所つき合いも大変だな」と言うと、

「さっきの片倉さん、綺麗な人でしょう?」と言った。

 俺が「そうだったな」と適当に答えると、

「あなたのタイプだった?」

 妻はそう訊ねた。

「ばかいえ・・」

 俺は更に言葉を濁した。

 ・・あなたのタイプ?

 その言葉を妻に何度投げかけられたことだろうか。俺はその度に話をはぐらかしている。


「あなた、もうすぐ命日よね」

 妻はお茶を飲みがら、食事を終えた俺にそう言った。

「ああ、今度の日曜日、一人で墓参りに行ってくるよ」と言った。「お前も何かと忙しいだろ」


 命日・・それは亡くなった俺の姉だ。

 俺は世間的には一人っ子だが、俺には一人の姉がいた。

 姉は生まれつき心臓に重大な欠陥を抱えて、この世に生を得た。

 どんな薬を使っても治ることなんてないし、何度検査しても、いい結果など出ることはなかった。そんな病気だったらしい。

 それでも、高校生になるまで、何とか持ちこたえた。

 だが、17歳で亡くなるまでの姉の人生は壮絶なものだった。入退院を繰り返す姉には、当然友達も出来なかったし、スポーツも厳禁だった。

 日常生活でも、食事の制限はあるし、階段の上りも控えなければならない。

 できるのは、勉強と読書だけだった。旅行もできなかった。


 それでも姉は「学校だけはできるだけ行きたい」と両親に願い出て、幼稚園、小学校、中学校、高校と進んだ。もちろん休むことは多かったが、その分、人より勉強をし成績は優秀だった。

 その度に、父と母は泣きながら喜んだ。当たり前のようでそうではなかった姉の人生が少しずつ前に進むのを喜んでいた。父と母は、毎週のように神社に足を運んだ。

 入学時の写真、卒業式の写真。それは両親の宝物だった。


姉は、そんな父と母に感謝しながら、「大学に行きたい・・」そう願い出た。

父母は泣きながら承諾した。

大学で法律を学びたい。その情熱が姉を駆り立てていた。


 だが、姉は大学に行くことはできなかった。

 受験のための予備校まで行く階段で、姉の最期の発作は起こった。

 急な階段で、いつも姉がつらい、と言っていた階段だ。

 いつも通りの朝ご飯、いつも通りの「いってきます!」の元気のいい声。

 そんな日常が、その日を境に我が家から失われた。

 姉の最後の姿・・その白い服がまばゆいくらいに綺麗だったのを憶えている。


 自分の病の苦しさを、おくびにも出さない姉は、いつも優しい姉だった。

 勉強も教えてくれたし、本も読んでくれた。

 今思えば、姉には、話し相手が両親以外には、弟の俺しかいなかったのだ。


 そんな姉に幼かった俺は、「ずっと、僕の傍にいて欲しい」と、そんな我儘を言ったことがあった。

 ずっと・・その意味が、「ずっと生きていて」なのか、「ずっと結婚しないで」なのか、どういう意味で言ったのか、言った当人も忘れた。

 けれど、姉が言った言葉はよく憶えている。

「こうちゃん・・」

 姉は、俺の名前、「幸一」をいつも「こうちゃん」と呼んだ。

「こうちゃんには、ずっとそばにいてくれる素敵な人が現れるわ」

 幼かった俺は、そんな姉の言葉に納得していた。

「いつか、きっと現れる・・」

 だが、今となっては、その言葉の意味がぼんやりとしてくる、


 姉の言葉を聞いた最初は、「そんな人、現れるはずがない」と思っていたし、成長してからは、なおさらそうだった。

 俺は成人するにつれて、心の中に一つの感情が作られていくのを感じていた。

 ・・姉以上の女性はいない。

 その心は次第に膨れ上がり、大学に入ってからも、出会う女性にどこか姉に似ているところはないだろうか? そんな目で見るようになっていた。

 俺は、心のどこかで、つき合う女性に姉の面影を追っていたのかもしれない。

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