第41話 近所の人①

◆近所の人


 数日経っても、工場の出来事は頭から離れなかった。

 工場のことだけではない。ファミレスに始まり、病院、そして、自宅の窓。

 おかしなことがずっと続いた。

 これで終わりだとは思えなくなっている。芙美子はどこか、いや、近くにいる。そう思えてならない。

 こんな異常が続くせいで、体もおかしくなってきた。胃がキリキリと痛む。

 胃薬を飲んでも中々効かない。常に吐き気がして、空えずきをよくするようになった。

 妻は、胃薬を多用する俺を心配しているが、「仕事のストレスだ」としか答えようがなかった。

 夫婦で隠しごとはよくない。妻の父親はそう言っていた。俺はその言葉に背いて生きていることになる。

 だが、本当のことを言ってしまえば、即、離婚だ。妻がそう思わなくても、権力者である父親にそうさせられるし、芙美子の生死を確認するため、俺は警察と共に、あの洞窟をもう一度訪れなければならない。

 それでも、本当のことが言えるか?

 妻にはこう言われるだろう。「あなた、そんなことを隠しておいて、私と結婚したのね!」

 ・・どう考えても、言えるわけがない。言えば、その後の展開が見えてくる。


 だが、そんな俺でも、仕事を終えて家路につく時は、やはりホッとするものだ。

 取り敢えず、家の中では大きな異変があったことはない。

 妻の髪がやたらと長く見えたり、娘の裕美が、俺と見たことのない映画を一緒に見たと言い張ったりすることを除けば、少なくとも工場のような悲惨な出来事は起きていない。

 いや、起きてもらっては困る。

 この家は、俺の城のようなものだ。大学を卒業し就職。そして、今の妻と結婚し、すぐにローンを組んで一戸建ての家を買った。

 家族、そして、この家を失う訳にはいかない。


 自宅が見えてくると、玄関口で妻が誰かと立ち話をしているのが見えた。時刻は、夜の9時だ。

 近所の人なのか? 相手は妻と同年代の女性のようだ。更に近づいてみると、その服装の派手さに驚かされる。妻もそれなりの服装だが、相手はもっと華やかだ。こんな時間にその服装だ。きっといい家の奥さんなのだろう。わが家以上に・・ 

 その背しか見ないが、街灯に照らされたそのセミロングの髪は茶色に染められ、綺麗にセットされているのがわかる。

 妻が俺の姿に気づき手を振ると、その女性も振り返った。

 後ろ姿通りの派手な・・いや、彫りの深い美人顔だった。

「あら、ご主人。こんばんは」

 女性は、若干気取り気味の口調で挨拶した。

 妻はその女性を「こちら、片倉さん・・ご近所の人よ」と紹介した。

 片倉麗子。それが彼女の名前だった。見るからに値段の高そうなネックレスが光っている。

 

 互いに挨拶を交わし、家に入ろうとすると、片倉さんが声をかけてきた。

「御主人からも説得してくださいよ」

 艶のある話し方だ。この声の質感に惑わされる男も多いことだろう。

 俺が「なんのことですか?」と尋ねると、

 片倉さんの訪問理由・・彼女は、妻に習い事のお誘いをしに来たようだった。

 出不精の妻を引っ張り出したいらしい。

 駅近くに新しく出来た会員制のスポーツジムへの入会の勧誘だ。

俺は、「いいじゃないか、入会すれば」と勧めた。「おまえ、ダイエットしたいと言っていただろ?」

すると妻は、「そうねえ。あなたが一緒なら・・」と小さく言った。

 そんな妻を見た片倉さんがふいに俺に向き直って、

「御主人もご一緒にどうですか?」と俺まで誘ってきた。「夫婦入会の特典割引もあるのよ」

 結局、言いくるめられた形で、夫婦で入会することになった。

  ようやく立ち話から解放され、家に入ると娘の裕美は二階に上がっているようだった。


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